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2006.02.18

開発教育講座「難民」

DSC_0036 仕事の合間に、JICA主催の「先生のための国際理解講座」をちょっとだけのぞく。
 主催側の知人に「『難民』がテーマだからぜひ来て」と誘われた教職員向けのイベント。開発教育の実践を進める小学校教諭がファシリテーターとして招かれ、導入や気づき、学びの動機付けなど、実際の授業の構成を解説していた。
 滋賀ではJICAと教職員が既に開発教育研究の勉強会を作っていて、ワークショップや授業の「話題提供者」としてルンタ・プロジェクトが参加したり活動を地元に還元するのも面白いな、と思っていたこともあった。話題提供者として役割を果たすにもそれなりのスキルが必要ではあるんだけど。
 この日の授業実践は「普段の生活の中で子どもたちには想像もつきにくい『難民』というテーマを、どう身近にひきつけて考えさせるか」。小5の社会科(?)に出てくる「難民」を、教科書の上の知識だけでない形で考えさせる授業をするには、というもの。
 まず大きく伸ばした写真の一部だけ(顔だけいくつか見える)を示し、「これは何でしょう」。参加者「人が並んでいる様子?」「寒そう」。次に写真全体を示し「何の写真でしょう」。参加者「壊れた街から逃げ出す人」「軍隊が先頭に立っている」「銃痕がある」。講師は「これは旧ユーゴのブクバルという街で撮られた写真です。このように、自分の生まれ育った場所で命が危なくなって住めなくなり、逃げている人を『難民』といいます」と説明後、「知識もなく想像したことのない子どもたちに、写真などのビジュアルな導入は有効。最初から答えを提示するのではなく、一部を示したり『なんだろうな』と考えさせることで興味を持たせます」と解説。
 難民とは命が危なくなって逃げている人、現在世界に約2000万人いるとされている、という定義づけをした後で、講師は世界地図を出し、「シール1個が50万人として、世界地図のどこに難民がいるか、自由に貼ってみてください」。「ルワンダ」「ソマリア」「アフガニスタンは」と参加者、本気モード。
 後ろから覗いてみると、チベット周辺に貼ったグループは1つだけ。チベット難民、存在感薄~(^^;)。講師は、作業の意図を「単に地図だけ示されても子どもはすぐに忘れてしまうけれど、自分で探してシールを張る作業をすれば、印象に残るし、認識しやすい。『感じることを大切にする』授業を心がけています」と説明。「北朝鮮から逃げてくる人いるよね」「日本にも少しはいるよね」と中国東北部や日本にもシールを貼ったグループがありましたが「考えすぎ」だったようで、講師は「北朝鮮のいわゆる“脱北者”はUNHCRに難民と認められてないんで……」と気の毒そうでした。
 さらに、次の授業への動機付けとして、ワークシートに「分かったこと」「感想」「知りたいこと」を記入。「難民はどう受け入れられているか」「子どもの現在とどう結びつければよいか」「難民認定の手続きは。難民はどういう状態になれば『難民』じゃなくなるのか」「難民とされた人が自分自身にどのくらい戻れているか」「受け入れ先ではどう扱われているのか」「国による難民対策の違いは」「難民と自国民の文化摩擦の解消方法は」――など、1人ずつ「知りたいこと」を挙げさせ、「子どもから出てきた疑問を取り入れて学習を進めることで、子どもに『自分にとって価値のある学習だ』と感じられるようにできます」と解説してました。

 とまあ私が覗いたのは冒頭の「導入部」だけだったんだけど(この後、『難民になってみる』という体験型ワークショップがあったらしい)、難しいなぁ、と思った。
 社会科の教科書に紹介されてるらしいのは、70年代のボートピープルの写真で、この日の教材も爆撃で破壊された旧ユーゴの情景。そりゃやっぱり、「かわいそう」「気の毒な人たち」「何かしてあげたい」と思うなってほうが無理だし、もしかして講師も教師側も、『難民』テーマの授業を通じて、子どもに「何かしたい」という気持ちを呼び起こそうとしてるんじゃないかという気さえしてきた。
 そういうのが一般的常識になってるから、“着の身着のままで貧しい難民”を期待してダラムサラに行った旅行者が、現地の物質的豊かさをみて「難民なんかいない普通の町でガッカリ。あいつら恵まれているし甘えてぶらぶらしているだけ」とか言い出したり、現地の難民学校とかが海外から支援を受けるための視察用にわざと数年前のボロい建物を残さなきゃならなかったり(まあこれは一つの搦め手で「アリ」とは思うけど)するんだよな。
 ただ一方で、いまの子どもや若い人ってすんごく弱くなってて、他者への好奇心や関心も薄くなってきてる気がする。教師の誘導は「自分たちは平和で安定してて物質的に豊か→難民と比べたら恵まれている」っていうのを前提にしているけど、実は、「自分たちは平和で安定してて物質的に豊か→でも息が詰まる、先が見えない、周りとうまくいかない、生きにくい→恵まれているはずなのにこんなじゃ『難民』以下」みたいに、内側の価値観だけでぐるぐる回っちゃうんじゃないか。
 そんで「難民になってみる」。教師側も子どもも、その自分の価値観のまま「難民になってみた」って、なんかダメだと思うけどなぁ(そのワークショップ参加してないから分からないけど)。チベット難民にはチベット人の価値観が、カンボジア避難民にはカンボジア人の価値観があって(チベット人でいえば、遠い血のつながりでも親戚だったら親兄弟のような関係になって家族として一緒に暮らすケースけっこうあるとか、物をもらって「受け取った個人が」占有することはほとんどなくて個人所有の感覚が少ないとか)、それを日本人が日本人の価値観ではかったら「きゅうくつ」だったり「いいかげん」だったりするんだろうけど、そもそもそう感じないんだからしょーがない。その違いが新しい発見だったり驚きだったり感心したりして楽しいわけだけど、こちらの価値観に合わせさせようとすればトラブルになるし、こちらの価値観で測って「気の毒に」とか「こうするべき」と思ったってピント外れるもんだよね。
 価値観そのままで「もし自分が難民だったら」と考えれば、「嫌だ」「つらい」って反応は自明だけど、相手はまったく違う部分に喜びとか楽しみとか怒りとか悔しさとかを感じてるんだから、それに何の意味があるのか。
 個人的な考えをいえば、パレスチナに生まれようとアフガニスタンに生まれようと日本に生まれようと「よい」「悪い」はなく、難民と呼ばれようとそうでなかろうと同じ人間の人生で、上下も貴賎も左右もないんじゃないかと思ってる。地雷が埋まってる立ち入り禁止区域を通り抜けて学校に行く子どもたちにも、隣の席の女の子がかわいいとか、お母さんは今朝機嫌が悪かったとか、そんなたわいのない日常があるんじゃないかと思う。それは決して「貧富の格差なんてほっといたらいい」「難民なんか別にどうでもいい」ということじゃなくて、「基本的生存権の保障」は、物事の本質や感情的な部分とははまったく別のものさしなんじゃないのか、ということでした(うまく説明できない……。書きたいことにまったくたどり着けないのでこのへんでやめます)。

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