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2012.03.19

[翻訳]2011年3月16日、ンガバのキルティ寺院で何があったのか(中)

2012年3月16日付のウーセルさんのブログ「看不見的西藏/Invisible Tibet」で転載紹介された文章「“他们认为我们害怕武力镇压,他们想错了”――与格尔登寺僧人的访谈,纪念平措自焚一周年【转】」 の日本語訳の続きです。仮名の僧侶アンサーAが、彼の目で見た「2011年3月16日」を語っています。

アンサーA:
私は愛国英雄〔*1〕のロプサン・プンツォ(2011年3月16日焼身)と同じクラス〔*2〕でした。現在、私たちのクラスは、キルティ寺院のなかでも反抗心が強烈で、同時に、中国政府がとりわけ厳しく監視し抑圧する対象となっています。ロプサン・プンツォは生前、つねづねチベット民族の置かれた状況を語り、とりわけ2008年3月16日にンガバの民衆が中国政府に虐殺された血なまぐさい事件について問題提起していました。彼は常日頃から、苦しみに満ちた表情で、次のように言っていたものです。
「2008年からンガバの民衆には他とは異なる新たな苦痛が生まれた」「あの大虐殺を我慢して受け入れることなどできない」などなど。
もちろん、キルティ寺院のほとんどの僧侶が皆同じように言っていましたので、プンツォがほかの人より〔急進的だと〕目立ったことはなく、単なる一般的な言論と思われていました。プンツォは地道で真面目な性格で、身体は屈強で、とても力の強い男でした。力比べでは、私たちのクラスで彼にかなう人はいなかったのです。彼は以前、何人かの友人にそっと言ったことがありました。「自分は心の中の苦しみをこれ以上我慢し続けることができない。2011年3月16日に、世の人に向けて一点の痕跡を残したい」。つまり、彼が焼身をはかった原因は、2008年に始まった弾圧をこれ以上我慢できなくなったことなのです。

*1: 「愛国英雄」という字面は、共産党のスローガンでよく使われる4文字単語なので、翻訳された中国語文章の中では異彩を放って浮き上がって見えて、あえて反語的にそういう表現を使った何かの皮肉かと思ったものでした。これは原文のチベット語でも「愛国の英雄」という意味の単語で、チベット語では抵抗活動に立ち上がった人たちに対して普通に使われる、特別な意味はない一般的な表現だということです。普通に書いても二重の意味になってしまう現状の皮肉さを思いました。(ま、「愛国烈士」とまであからさまに書いた訳じゃないけどね)
*2: クラスというと学校みたいですが、チベット寺院の修行階梯はまさに学校のようになっていて、同じ年に出家した人たちが1クラスになって読経や問答や暗誦をして、試験を経て次の修行階梯に進みます。掃除当番や洗濯当番もクラスごとに課せられると思います。俗世を離れ文字通り寝食を共にするのだから仲間意識や絆の強さは相当なものと想像できますけれども、それにしても、Aさんの話しぶりからは、兄弟姉妹のつながりを超えるほどの精神的な結びつきを感じ、胸が痛みます。

ロプサン・プンツォが焼身をはかったあの日は、キルティ寺院ではちょうど〔チベット大蔵経の経・律部〕「カンギュル」の加持が行われていました。法要が終わった後、私は寺院の売店に行き、そこで、私たちのクラスの僧侶ひとりが焼身をはかった、と耳にしました。その知らせを聞いた時、胸は悲しみでいっぱいになり、全速力で僧坊に駆け戻り先生に知らせ、また大急ぎで大経堂の前に走り戻る時、ロプサン・プンツォの親戚のケルサン、ゲレク、それから今も監獄に囚われているタルギェやジャプ・ツォンドゥ〔*3〕などの人たちも、息せき切って走って来ましたが、私には、何が起きたのか聞くこともはばかられる様子でした。
大経堂の周りではたくさんの僧侶が悲しみに頭を抱えて泣き叫んでいて、自分は何をどうしたらよいかも分からず、誰もかれもショックで呆然とし……世界のすべてが悲しみの底に投げ込まれたようでした。まもなく、500人から1000人ほどの僧侶が大経堂の前に集まりました。僧侶たちは、寺院を飛び出してその他の行動に出る〔*4〕準備を始めました。けれど、アラック(トゥルク、リンポチェ)・ドンク・ツァンが説得して、僧侶たちが出て行って抗議することをおしとどめ、僧侶たちに解散するよう求めました。大勢の高齢の信者たちも、僧侶に向かって、泣き叫びながら求めすがりました。
「私たちの宝であるお坊様方、どうかそのようなことをなさらないでください、私たちはあいつら漢人など相手ではありません、彼らは過去1958年〔*5〕にも文化大革命時にも私たちの数えきれない人数を殺して、いまだ現在に至ってもまだ殺戮をし続けて平気なのです。どうかおねがいします、どうかおねがいします。そんなことをなさらないでください!」

*3: プンツォへの故意殺人罪を着せられ2011年8月に懲役11年判決を下されたロプサン・ツォンドゥ(ロプサン・プンツォのおじで師)らを指すと思われます。
*4: はっきりと言及していませんが、つまりはデモをすることを指すと思われます。このインタビューでは「ここに至るまで」の状況が説明されていないのですが、ンガバのキルティ寺院ではここで言及されている2008年3月の惨劇、2009年2月には僧侶タペーがチベットで初の抗議の焼身をはかってチベット内外に大きな衝撃をもたらしたこともあり、3月10日や3月14日をはさむ時期は銃器を持った軍と警察が増強され、戒厳令並みの武力抑圧に置かれていたことが分かっています(そして、その理不尽な抑圧は、ますます僧侶たちの反発を招くだけであったことでしょう……)。この場面以降、「寺を飛び出していこうとする」という言葉遣いがたくさんみられるのですが(中国語訳では「冲」…突撃する、突破する、突進する、という動詞が当てられています)、寺院境内から僧侶が外に出る行動に「飛び出す」「突破する」という表現が使われること自体が既に異様な状況といえます。つまり、まだロプサン・プンツォが焼身をはかる前の、何ごとも起きていない時点から、軍と警察が寺院出口を見張り、行動を制限し、僧侶たちが自由に出入りできない状況があったということが分かるわけです。

*5: 1958年、という年号に、チベット問題を知っている方のほうが、おや、と思われるかもしれません。「チベットの悲劇=1959年」というイメージが強いかと思いますが、ここにはアムドの辛酸の歴史があります。人民解放軍のチベット制圧後、1959年のチベット民族蜂起に至るまでに、1950年代からカム、アムド地域で抵抗活動がおこり、武力殲滅されました。カムの蜂起(1958~)は「チュシ・ガントゥクの闘い」として有名ですが、アムドではもっと凄惨な大量殺戮が行われ、1958年にゴロクやマチュ、ナクチュなどのアムド各地で大虐殺がありました。そのため、アムドの人々にとっては、1959よりも「1958」が血に刻まれた年号となっているのです。

〔泣きすがる高齢のの信者たちに〕僧侶たちは次のように答えました。
「私たちは楽になりたいという欲求に押されて〔抗議に〕突き進みたいのではありません、苦しみに目をそむけずに突き進みたいのです……この人たちが肉体と生命をささげたというのに、私たちがただとどまっていることはできません」。
その日、私たちは、死ぬことしか考えていませんでした。生き続けることなどまったく考えなかったのです。ただしこの時は、たくさんの若い信者たちが、僧侶たちを外に出ないよう押しとどめました。人間は苦痛が極限に達した時には、恐怖やためらいなどはまったく消え去るものなのです。私は臆病者ですが、その日は死ぬことなどとても簡単なことだという、自然にわきあがるような感覚がありました。
〔寺院から〕外に〔抗議に〕突き進んだ中心メンバーは私たちのクラスの僧侶で、みな19歳、20歳の僧侶です。同じクラスの同級生という深い感情に動かされて、ある僧侶は泣いて叫びながら外へ突き進み、またある僧侶は自分の胸を叩きながら外に突き進みました。〔*6〕
この時、かつてデプン寺院で学んでいたことのある僧侶のケルサンとタルギェ(2008年3月12日にデプン寺院で行われた抗議活動の時に手首を切って抗議した僧侶)が、僧侶たちに対して地面に座るよう命じたため、最終的にようやく皆が座りました。
日が暮れて空が暗くなるころには、3000人から4000人〔*7〕の僧侶がそこに集まっていて、近くの巡礼者やつえにすがって歩いてきた老人たちが、僧侶たちの前に来て口々に言いました。「カド(チベット語で『お願いです』と哀願する意味*8)! カド! カド! お上人様やお坊様が傷つけられることがあってはなりません、貴方がたが傷つけられることは、私たちにとって、チベット民族全体が傷つけられることに等しいのです……」。
声を張り上げ涙ながらの哀願に、その場全体に号泣がこだましました。あの当時はこのように耐えがたく悲痛な状況で、ですが私たちにはなんの力もなく、なすすべもなく地面に座っていることしかできない状況は、内心とてもつらいものでした。

*6: 次の段落では地面に座らされており(境内での出来事と思われる)、実際に多くが外に出たのか、説得されて結局は出なかったのか、原文はやや混乱する書き方となっています。
*7: キルティ寺院の僧侶は全員で2500人と伝えられており、他の寺院の僧侶が来たのでもなければ3000~4000人は多すぎる人数ですが、原文表記ママとしています。
*8: 辞書によると「カム・アムドでの出会いや別れの際の挨拶言葉」、アムドの人によると「『万事あなたの思うがままになりますように』という願いや祝福の呼びかけの言葉」とのこと。お坊さんに対し敬意をもって呼び掛ける挨拶言葉なのでしょう。

この時、チュペルという一人の僧侶が立ち上がって叫びました。
「私たちがこのような行動に出るのは、ほかにどのような選択もできないからであり、このように外に抗議に向かうことも理解してもらえるはずだ。私たちチベット民族にとって最も大切なものはダライ・ラマ猊下とパンチェン・ラマ猊下お二人の聖者であり、ダライ・ラマ猊下は異境に追いやられ、パンチェン・ラマ猊下は監獄に囚われている。私たちが考えなくてはならないことは、お二人がこのような苦境にあるのはすべてチベット民族のためである、ということだ。私たちはこのことを必ずしっかりと頭にとどめなくてはならない。このような、私たちにはもうほかに選ぶ道はないという考えを除いても、私たちはこの〔聖者2人がチベットのため苦境に置かれている〕ことをしっかりと心に刻んで、現在の状況を論じるべきだ。2008年、やつらはダライ・ラマ法王の肖像を踏みにじり、私たちの心の底に深い深い傷跡を残した。権力の横暴によって、たった一枚の肖像さえ手元に置くことも許されない状況に至っては、我々はもうこうするしかなく、ほかにはもう選択などないのだ!」
その後、ケルサンも演説しました。
このとき、ケルサンの妹と弟は泣きながら、「アグ〔おじさん〕ローロー(お願いです)〔もう分かりました〕、話をしないでください」と止めました。ケルサンは「漢人の我々に対する武力鎮圧があるかどうか、私の弟や妹たちを見れば一目瞭然でしょう。彼らはなぜこんなにも泣いているのでしょうか?」などと述べました。
この少し前、何人かの僧侶はロプサン・プンツォが焼身をはかった場所に駆けつけていました。
〔キルティ〕寺院のほら貝を吹く役目の僧侶(名前は不明)が「我々は焼身した英雄たちの後に続いて中国に反抗するぞ」と叫び、外に向かって突っ込んでいこうとするのを、彼の父親がつかまえて引き留めましたが、〔彼は〕「アバ〔お父さん〕、彼らが自らの命を燃やすなら、私たちは立ち上がって後ろに続かなくてはならないんです」と叫びながら外に向かって突っ込んでいきました。そのほら貝を吹く係の僧侶は寺院から外に出て、その後逮捕され、今も拘置所で拘禁されたまま、現在も正式な裁判は開かれず判決も下っていません。
その当日はたくさんの人たちが逮捕されました。中国の軍人は、僧侶と民衆を引き離して細かいブロックに分断するようにして抵抗を抑えつけました。ですから、まだ寺院内に留まっている僧侶たち全員が、ロプサン・プンツォは既に犠牲となったが、逮捕され連れ去られた僧侶を必ず釈放させなければならない、もし釈放しないなら私たちも解散しない、という意思表示をしました。
もうすぐ太陽が沈んで暗くなろうとするころ、僧侶たちは大経堂の前にたくさんのバターランプ〔チュメ〕を灯し、このとき、携帯電話の電波が途絶えました。けれど今回の抗議は効果があり、それら何人かの僧侶はその晩のうちに釈放されました。
それが1日目の出来事でした。

ロプサン・プンツォの同級生の僧侶(仮名「アンサーA」さん)が語る、2011年3月16日当日の一部始終です。
インタビューから分かるのは、Aさんは寺院境内で悲報を知り、僧坊と大経堂前を走り回り、後は大経堂前で他の僧侶と共に地面に座り込んでいた大勢のうちの1人だったということです。ですから、彼自身が見ていない、ロプサン・プンツォの最期の様子や、外を包囲する軍隊と警察の様子などは話されません。当日からかなり長い時間が経ち、僧院内の僧侶たちはさまざまな二次情報や噂を耳にしているはずですが、Aさんはそうした二次情報ではなく、自らが見たこと、聞いたことだけを誠実に話してくれています。それだけに、情報は断片的ですが、描写は生々しく、現場にいあわせた人たちの嘆きと怒りと悲しみがストレートに伝わってきます。自ら確信を持てることだけを語れ、というのはチベット仏教の教えでもあるわけですが、証言者として非常にすばらしい態度で、これが19~20歳の若い僧侶の語りだと思うと切なくなるし、おそらくは亡くなったロプサン・プンツォもこういう精神の青年だったのだと思うと、ほんとうに悲しくなります。

RFA(ラジオ・フリー・アジア)やVOT(ボイス・オブ・チベット)などによると、2011年3月16日にンガバで起こった状況は、町の中心部である市場前の十字路でロプサン・プンツォが抗議の焼身をはかった後、軍隊や武装警察がロプサン・プンツォを激しく殴打し、駆けつけた僧侶や集まった住民らが怒ってつめより▽約1000人のデモに発展、暴力で解散させられ、逮捕者が多くでた▽軍隊と武装警察が寺院の周囲を取り囲み、住民らも僧侶を守るため寺院と軍隊の間に集まって座り込んで対峙し、寺院の周囲が一触即発の状態になった(これがその後一カ月以上兵糧攻めとなる)――と伝えられています。
当時の記事はこちら(チベット@NOWルンタ2011年3月17日) 
こうした情報と重ね合わせると、Aさんの証言がより身に迫ってきます。
Aさんは、大経堂前の広場に座り、外がどういう状況か分からないまま(ただし尋常な状態でないだろうことは漠然と推測しつつ)、死を覚悟して、「突破して外に出る」「いや待て」というやりとりをただ聞いていた、ということが分かります。寺院の外には重装備の軍隊が銃を向けて包囲している状況で、それを見て境内に入ってきた高齢の信者たちは、どうか出て行かないでください、と僧侶を止め、見てはいないけれど死を覚悟している僧侶は「いや行かなければ」というやりとりが続いた――。

2008年の惨劇の再現に至らなかったのは、ひとえにアラック(トゥルク)やゲシェや信者の説得だったのであり、軍や警察の殴打や銃撃での弾圧や殺戮を怖れて「おとなしく従った」のでは断じてない、ということがありありと分かります。

蛇足と分かってるのですがつい解説を入れたら長くなってしまいました。すみません。まだ続きます。

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