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November 2012

2012.11.23

当局記事「この冬のチベット駐屯新兵が出発」

Tumblrにメモとしてアップしようと思った覚え書きなのですが、引用が多くなるので整理のためブログ使います。

RFAの22日の記事「藏人自焚引起汉人震撼 网上呼吁当局改变治藏政策(图)」の最後1段落が気になったので、元報道を捜してみました。

然而最新传出的消息是,本周再有一批军人进入四川藏区,这也令外界有更多的联想。据中新社报道,11月20日晚,今冬首批进藏新兵抵达成都集结,他们将和各地陆续抵达的新兵一起进行短暂休整、集训后,奔赴雪域高原。
http://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/ql3-11222012103239.html

日本語訳

 最新のニュースによれば、今週また一団の軍人が四川省のチベットエリアに進駐し、このことは各方面に更に多くの事態を連想させている。中新社(中国新聞社)の報道によると、11月20日晩、この冬初のチベット進駐新兵が成都に集められ、彼らはまもなく各地から続々と集められてくる新兵と一緒に短い調整を行い、集団訓練ののち、チベットの雪の高原に赴く。

6月に高校(高中)や中等専門学校(中専)や高等専門学校(高専)を卒業して新たに人民解放軍に入隊した新入隊員(っていうの?)がチベットに大量に派兵されるようです。ふうん、と検索したら、関連記事が大量にあふれかえっていました。

首批进藏新兵抵达成都集结
发布时间:2012-11-21 09:16:09
121121016fa_2_2 11月20日晚,今冬首批进藏新兵抵达成都集结,他们将和各地陆续抵达的新兵一起进行短暂休整、集训后,奔赴雪域高原,守卫祖国边陲。据悉,今年西藏军区征集入伍的新兵大部分都是“90后”,不少新兵还有一技之长。图为胸带红花踏上军旅路。
关键字: 参军、成都、新兵、西藏、90后
中新社发 刘忠俊(四川分社) 摄 ( 2012-11-21 )

チベット進駐新兵第一団が成都に集結

(2012年11月21日)11月20日夜、この冬第一陣となるチベット駐屯新兵が成都に集結した。彼らは各地から集まる新兵と調整や訓練の後、雪の高原に赴き、祖国辺境の守衛につく。聞くところによると今年の人民解放軍チベット管内に入隊する新兵は大部分が「90後(1990年以降生まれ)」で、少なくない新兵が一芸に長けているという。写真は、胸に大きな赤い花をつけて軍人としての第一歩を踏み出すところ。

動画ニュース(CCTV軍事ニュース 2012年11月19日)(誰かが短く切ってアップしたものがYouTubeにありました)
「全国トップを切ってチベット進駐新兵が河南省を出発」

あとの記事は、中味はほぼ同じなので見出しだけ紹介。

郑州首批95名新兵进藏戍边(图)
鄭州(河南省の省都)から95人の新兵がチベット国境防衛に進駐
时间:2012-11-23 08:06:51 来源: 中新网河南新闻中新河南网
郑州11月23日电(门杰丹 马涛)
1353629248_5614(战友们相互加油鼓劲。马涛 摄)
11月22日,郑州市首批95名新兵奔赴雪域高原戍边卫国,2012年冬季郑州新兵运送工作正式启动。
1353629268_3356(临行前向女友敬礼告别。马涛 摄)
      据了解,郑州市今冬征集的进藏新兵以“90后”为主,大学以上学历青年占6成以上,所有人员均对“条件特别艰苦”的西藏充满了憧憬,主动申请进藏服役。     “越是艰苦的地方,越能锻炼提高,我们能吃苦,不怕苦!”来自河南化工职业学院的新兵余晓涛说出了全体进藏兵的心声。(完)

こちら「半島新聞」(青島の地方ウェブニュースと思われる)は中新網からの転載。写真が大きいので引用。「新兵」がすごく若くて子どもで、そこいらへんのあんちゃんだなあ、と思わされます。

半島新聞
http://news.bandao.cn/news_html/201211/20121121/news_20121121_2024696.shtml
组图:今年首批进藏新兵抵达成都集结
2012-11-21 14:01  
来源: 中国新闻网
20121121140407_a158gc4v 11月20日晚,今冬首批进藏新兵抵达成都集结,他们将和各地陆续抵达的新兵一起进行短暂休整、集训后,奔赴雪域高原,守卫祖国边陲。20121121140415_ytml51th 据悉,今年西藏军区征集入伍的新兵大部分都是“90后”,不少新兵还有一技之长。20121121140423_hckt1f9c 为全力做好新兵驻训转运保障工作,西藏军区驻川办事处专门成立了驻训管理、医务保健、车站转运、机场中转等9个工作保障组,20121121140431_0vmtop3z 热情为新兵提供饮食住宿、医疗卫生、交通运输等服务,使新战士踏入军营便能感受到大家庭般的温暖。20121121140440_bag58c8b 图为首批进藏新兵整队走出火车站。范航 摄

次は「陝西農村網」の記事。陝西省(省都・西安)は甘粛、青海に隣接する省です。写真はなし、記事のみ。

咸阳市欢送今冬首批进藏新兵
http://www.sxncb.com/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=121&id=6248
陝西省咸陽市からこの冬初のチベット駐屯新兵100人余

时间: 2012-11-20 09:12:59   
来源:咸阳日报
陕西农村网讯:(咸阳日报 张帆 胡博伟)

11月19日12时,咸阳市首批新兵100余名个个胸戴大红花,身着07式新山地迷彩服,带着家乡亲人的嘱托,在咸阳军分区的组织下从咸阳火车站列队启程,奔赴西藏边陲,为国戍守边疆。市委常委、常务副市长赵润民,市委常委、咸阳军分区司令员赵宽兴出席欢送仪式并讲话。咸阳军分区政委徐世忠等出席了欢送仪式。
欢送仪式上,赵润民代表市委市政府勉励新兵发扬咸阳人民爱国爱军的光荣传统,听从党的召唤,奔赴到祖国最需要的地方。
赵宽兴在讲话中要求新兵视西藏为第二故乡,热爱西藏的一草一木,认真执行党的民族政策,尊重少数民族风俗习惯,做维护西藏稳定的坚强柱石和忠诚卫士,与西藏各民族群众一道,共同构筑维护祖国统一、国家安全和社会稳定的钢铁长城。
据咸阳市征兵办的同志介绍,这次进藏的100余名新兵,是从众多的应征青年中经过严格挑选的。为调动广大应征青年到艰苦地区服役的积极性,咸阳市政府相继出台了一系列优惠政策,为每个进藏兵优抚对象发放了10000元特别优待金。各市、县兵役机关针对进藏新兵提前启运的实际,实行优先报名、优先体检、优先政审、优先定兵,确保选取高学历高素质青年,确保进藏新兵按时启运。新兵代表汪强在发言时说:“到部队后,我一定刻苦学习军事知识,苦练杀敌本领,提高军事技能,决不辜负家乡人民的殷切期望,为家乡人民争光,请家乡人民放心。”
责任编辑:胡艳静

記事によれば、咸陽から出発する新兵の人数は100人余り。咸陽市政府は恩恵政策の一環としてチベット駐屯を希望する者には1人1万元の特別優待金を支払っていると。

 江西省新建県の政府サイトにもこんな記事が。

我县今冬首批入藏新兵启程
http://www.xinjian.gov.cn/zjxj/news/2012-11-21/12282.html
わが県(江西省新建県)からこの冬初のチベット駐屯新兵30人が出発
浏览量:69
发布时间:2012-11-21 信息来源:
20日上午7时30分, 我县今冬首批进藏的30名新兵带着家乡人民的重托,奔赴边疆,开始了保家卫国的军旅生涯。县委常委、县人民武装部部长熊宝龙,县人民武装部政委刘斌祥到现场欢送。
欢送仪式上,熊宝龙、刘斌祥亲自为新兵佩戴大红花,向新兵们表示祝贺,并勉励进藏新兵要把参军入伍当作人生历程的新起点,进藏后爱军精武、刻苦训练,争当优秀士兵,争取更大光荣,以实际行动为部队建设,为边疆建设作出应有的贡献。          欢送现场,新兵们身着崭新的军装,迈着整齐划一的步伐,佩戴着鲜艳的红花,在一片欢腾的炮仗声和亲人的美好祝福声中,登上迎接新兵的专车,奔赴高原,担负起卫国戍边的神圣使命。
据了解,自今年冬季征兵工作开展以来,我县进行了广泛宣传动员,在广大适龄青年中进行严格筛选,把政治合格、身体健康的青年吸收入伍,使我县征兵工作取得了阶段性成果。我县有1247名适龄应征青年报名参加体检,经过政治审查等程序,有300余名适龄青年被批准应征入伍,他们将于12月10日开始,分八批奔赴军营。

 こちらは世界遺産で有名な張家界の「張家界オンライン」より。

张家界市桑植县今冬首批20名入藏新兵启程赴军营
http://www.zjjzx.cn/news/szyw/223852.html
張家界市桑植県から今冬初の20人がチベット駐屯新兵に
张家界在线 
2012年11月22日 13:46:30

 红网张家界站11月22日讯(通讯员 向娜 王优仙)11月21日,张家界市桑植县首批20名进藏新兵,带着亲人和家乡人民的祝福和嘱托,开始了保家卫国的军旅生涯。
  县委常委、常务副县长金则胤代表县委、人大、政府、政协和全县46万各族人民,向关心国防事业,积极送子参军的家长们表示崇高的敬意。他希望,入伍的新兵同志,要端正入伍动机,牢固树立为民当兵的思想,争做“有理想、有道德、有文化、有纪律”的优秀战士;要发扬吃苦耐劳精神,自觉经受磨难和考验,熟练掌握军事技能,努力使自己成为军事过硬的标兵;要自觉遵守国家法律法规,遵守部队条例和规章制度,服从命令指挥,严格要求自己,坚决完成部队赋予的各项任务,为保卫祖国、建设祖国做出更大的贡献,为家乡争光。
  欢送现场,新兵们在“保家卫国终不悔、驰骋西藏献青春”横幅上签名,以此来表达担负起卫国戍边神圣使命的决心。随后,新兵们还来到贺龙纪念馆进行庄严宣誓,参观馆内的珍贵照片和文物,了解贺龙元帅等老一辈无产阶级革命家的光辉事迹和伟大成就,接受爱国主义教育。
  据了解,自今年冬季征兵工作开展以来,桑植县进行了广泛宣传动员,共有403名适龄应征青年报名参加体检,经过体检、政审等程序,有140余名适龄青年被批准应征入伍,将于11月21日开始,分4批奔赴军营。体检、政审“双合格”青年中,有30多人自愿递交了进藏进疆服役申请书,县征兵办从这些应征青年中选取了身体素质好、文化程度较高、思想素质过硬的20人进藏,此次运送的进藏新兵,将先抵达成都,接受一个月的高原环境适应训练,随后正式进入西藏,开始为期两年的军营生活。

広西チワン自治区の広西新聞網にはこんな記事が。

我市今冬首批新兵入藏
http://qz.gxnews.com.cn/staticpages/20121122/newgx50ad7c0b-6461659.shtml
我が市(広西自治区欽州市)からこの冬初のチベット駐屯兵
Bb88580f738e2aacd907902aa83692a6   神州共沐盛会,长城又添新兵。11月20日,我市在火车东站举行简朴而隆重的仪式,欢送今冬征集的首批新兵进藏建功。市委常委、钦州军分区司令员徐斌,市委常委、政法委书记寇兴广,市人大常委会副主任周斌,副市长何有成,市政协副主席李磊岩等军地领导参加欢送仪式。钦州军分区参谋长雷云久主持仪式。
  这批新兵分别征集自浦北和灵山县,他们将分赴武警西藏总队所属部队服役。徐斌在仪式上讲话时说,今年,上级赋予我市征集350名进藏新兵这一光荣的任务,既是对各级兵役机关的一次严峻挑战,更是对全市干部群众国防观念的一次实际检验,如今看到眼前的战友个个勇往直前、人人立志奔赴艰苦地区戍边卫国,这充分证明钦州人民的国防观念是强的,新兵同志们个个都是好样的。
  徐斌勉励新兵们,部队是所大学校、大融炉,是强者生存的福地、有志男儿成才的摇篮,希望新兵们不畏艰苦,迎难而上,练就过硬的军事本领,早日成为一名合格的共和国卫士。
  寇兴广代表市委、市政府和全市人民向新兵同志们表示热烈的祝贺,向关心支持国防事业的应征青年家长表示崇高的敬意。寇兴广指出,建设强大国防,走质量建军、素质强军之路,是建设有中国特色社会主义的重要内容,希望新兵同志们牢记肩负的神圣使命,继承和发扬革命传统,向爱国奉献的革命先烈和英雄模范学习,为早日实现国防和军队现代化作贡献。
编辑:陈琳燕  来源:钦州市人民政府网

 もう飽きてきたのでこのへんにしますが、とにかくこんな感じで、陝西省、河南省、江西省、広西自治区などの小さな市政府県政府が「おらんとこからもチベット駐屯兵が出発しただ」と出発式典を開き、政府系新聞に記事にさせまくっている状況。軍服の胸に赤い大きな造花をつけ(女性につけてもらったりして)、列車に乗り込んだり偉い人が訓示をたれるという記事です。
 二度と帰って来られないかもしれない紛争地に、お国のため命がけで赴く若者をこぞって送りだすってノリですよねこれ?(フラグ立てまくって何がしたいんだ^^;;)

 チベットっていったいどんな所なんだったっけ!? 彼らは何しに行くんだ? と、くらくらしてきました。

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2012.11.19

イスラエル空爆atチベット系タイムライン

 チベット関係(+中国関係)情報収集発信のためツイッターを利用しています。
 チベット世界がぐっと近く生々しくなる分、世界の他の地域は遠くなり、例えばパレスチナでガザがひどいことになっていても情報がなだれこんでくることはないし、自分自身とおりいっぺんの知識しか持たないですから発言する内容も持たないのですが、そんなチベットタイムラインにもイスラエルのガザ空爆の影が差すことがあります。
 印象に残ったので短く記録します。

 発言しているのは、チベット関係の著作もある四川省出身の詩人唐丹鴻さん。
 四川省成都の出身で、チベットに関心を持ち、ツェリン・ウーセル(オーセル)さんと交流、成都でギャラリーを経営したり、チベットをテーマにした映像作品を制作した後、イスラエル人男性と結婚して、現在はイスラエルに移住、テルアビブで2人の子どもを育てています。

娘が「もし、寝てるときに爆弾が飛んできたら、わたし死んじゃうの?」と尋ねる。私は「大丈夫よ」と答える。「あなたと弟の部屋は家の中で一番安全なの。うちの防弾シェルターは子供部屋なのよ」。さっきもロケット弾が飛んできた。最近の1発は我が家から歩いて20分くらいの町の中心に落ちた。射程距離に入っている。ここ数日、ロケット弾数発が南部に落ち、3人が死亡した。今晩のロケット弾はテルアビブに到達したが、迎撃されたという。
(2012年11月15日)

(「防弾シェルターだって? そんなに危険なところに住んでいるの?」という返信に応えて)

我が家の防弾シェルターはそのまま子供部屋です。湾岸戦争以降、イスラエルでは法律で、すべてのマンションに防弾シェルター設備を義務付けました。鉄板で挟んだコンクリート壁、鋼鉄の厚いドア、窓は防弾ガラスです。(図)
(2012年11月15日)

 作家ウーセルさん、米国の評論家何清漣さん、有名ネットユーザーウイリアムシュー(williamxu威廉退尔)ら交流ある人たちから気遣う返信が送られています。

(ラサで、公安局の監視を受けているウーセルさんへの返信でブラックジョーク)
「私の心配をしてくれるなんて。私のところにはパンダ(国宝=国保)はいないの、あなたよりずっと安全よ」

翌日にはこんな発言も。

幼いこどもには戦争が理解できません。彼女は、なぜハマスがここにロケット弾を撃ち込むのか理解できないし、イスラエルはガザにもっとひどい攻撃を加えていることなどもっと理解できません。子どもはまさに「私に敵はいない」(劉暁波の言葉)…。娘が「ガザにも子どもはいるの?」と聞くので、私は「もちろんいるわよ」と答えました。娘「そこでは子どもが死んだりしてないの?」、私「死んでいるわ」。大人として、子どもにこんなふうに答えなければならないのは、本当に悲しいことだ。(2012年11月16日)

 ツイッターで彼女を知り、言葉を交わした機会は少ないけれど相互フォローになって、共通の知人を介してそれまでのことや近況も知り、複雑な生き方を選んだ女性なのだなあと関心を持っていました。
 漢人でありながらチベットに心を寄せ、当局から「分裂主義者」とされて言論の場を失い、巡り逢った男性はイスラエルの人で、自由主義を標榜しながら弾圧と軍事的紛争を続けている中東の特殊な国へ。渡航前は日本人翻訳者との交流もあり、いくつかの詩作品は日本にも紹介されているそうです。踏みつけられる人がいたら、踏みつけられている立場に立ちたい、と思う人なのではないかと想像するのですが、チベットに漢人の立場からかかわり、イスラエル側に身を置いてパレスチナ問題を見つめるのは、精神的にとても荷の重いことなのでは、と想像してしまいます。
 ツイッターでは、「あなたの詩のファンです、新しい作品が読みたい」と問いかけられ、「もう長いこと詩は書いていない」と答えていました。作家、表現者として思うことをきいてみたい、と考えたりします。

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2012.11.18

矢島保治郎展in前橋2012 蛇足―残る謎

 矢島保治郎展の蛇足、いきます。蛇足ですので、ご関心ある方のみお読みください。

 えーっと今回、私の何よりの関心事は、「ノブラーが高名な貴族の娘であることを突き止めた 」という1点だったりするのでした。

 保治郎といえば妻「ノブラー」。
 チベット史上初めて日本人と結婚し、チベット人として初めてたった一人はるか日本に嫁ぎ、日本人との息子を育て、異郷での生活わずか3年余りにして29歳の若すぎる生涯を終えた悲劇のチベット人女性。
 謎の多い彼女の人生をもっと知りたい、と思っていました。
 「ノブラーとは誰だったのか」「現存するはずの縁者はどこに」――。
 「ノブラー」という響きはチベット人名らしくない、本当の名前はほかにあるのではないか。ノブラーとはノルブ(貴宝)にラー(日本語でいう「~さん」にあたる敬称)をつけた通称ではないか、という想像は『西蔵漂泊』(江本嘉伸著)などでも上がっていたことです。それなりの家柄の女性の、当時ほとんどなかった外国人との結婚や海を越えた国への渡航は1918年当時のラサの耳目を集め、人の記憶にも残るはず。知る人は1959年前後に亡命してインド側に逃れ散り散りになったのか、今もラサに残っているのか――。

 それに、『西蔵漂泊』で触れられている、「ノブラーにはひょっとしたらもう1人子どもがいたのではないか」という謎もあります。
 1922年にラサから送られた「おまえの娘、ラティとも皆元気にやっています」という文面の手紙。雪景色のラサ、保治郎と「ノブラー」に抱かれた長男意志信(イシノブ)のほかにもう1人、寄り添う幼い女の子が写った写真。ラティとは誰か。ノブラーは再婚または未婚の母で、意志信より上に長女がいたのではないのか、その長女はラサの実家に置いて日本に渡ったのではないか……という、大胆な仮説です。保治郎からそのことに関する話が語られた記録はありません。

 展示会では残念ながら、「ノブラー」にはそれほどスポットはあたっていませんでした。
 ただ、展示に合わせて発行された写真報告集には、2ページにわたり、「保治郎の妻テンパ・ノブラーの子孫 テンパ・ストップソナム・トップゲルさんに聞く」という顛末記が載っています。

 「保治郎の妻であるノブラーの子孫にあたる4人と会うことができた」
 「ノブラーの姪にあたる母を持つテンパ・ストップ・ソナム・トップゲル*さん」(ママ) 
(*テンパ・ストップ・ソナム・トップゲルの記載は文中の表記。記録集の見出しと写真説明は「テンパ・ストップソナム・トップゲル」となっている)

 えっと! 「ノブラーの子孫にあたる」とさらっと書いてある、ということは。意志信の姉「ラティ」の存在さらっと確認ですか!? ノブラーの本名は「テンパ・ノブラー」で確定なんですか!?!?

 私「あの、ノブラーの本名は」
 小松氏「時間が経ってて、そこまで分からないよね。今生きている人がノブラーの姪の子どもという関係だから、3代経ってるからね」
私(あ、子孫って、ノブラーの子どもの子ども…ではなく、兄弟姉妹の子ども…ということなのか)
私「ここに書いてある『テンパ・ノブラー』という名前は、正確な名前が判明したわけではなく、今回分かった家柄の『テンパ』と、これまで日本で呼ばれてきた『ノブラー』を合わせただけなんですね?」
小松さん「そうですね」(あっさり)

 そ、そうですか…。なんて乱暴な…。
 うわあああん……ああ、いろいろ残念すぎる…。

「ストップ」さんの謎

 今回、小松氏のブログなどから「ノブラーの実家は『テンパ(デンバ)家』*だって!!!」とビッグニュースが回った時。
 知り合いの、詳しい方の反応は、「…テンパ家?」「…ストップ?」というものでした。
 *ブログや写真展案内状の記述は『デンバ』、写真報告集で『テンパ』表記

 「『ストップ』じゃなくて『ソトプ』なんだろうな……」(詳しい人)

 チベット人は名前を略してつなげて呼ぶことがよくあります。「テンジン・ドルジェ」が「テンドル」に、「ペンパ・ツェリン」が「ペムシ」に。キムラタクヤがキムタクになるようなものです。「ソトプ」は、ソナム・トプギェルの略称として非常にポピュラーな名前だそうです。
 「ストップ」は、耳で聞いた発音をそのままカタカナ書きしたのでしょう。たぶん、「(テンパ)家のソトプことソナム・トプギェル」が全部書き出されてしまったのではないかと思います。
 さらに「通称ソラドジ」、、それはソナムドルジェなのでしょうか…。結局、正確なフルネームがわからない!! 「ストップ」さんに名前をチベット文字で書いてもらうだけで全然違ったのに。せめてアルファベット綴りでも、それもだめなら最悪漢字表記であっても(通訳のウリウサさんは中国語で会話していると思うので)手がかりになるのに……。欲求不満が募るのでした。

「貴族のテンパ家」の謎

 チベットの貴族については、それぞれの家柄が今もプライドを持って血筋を大切にしている側面があるぶん、研究がかなり進んでいるように思います。実際、小松氏も写真報告集で、「ストップさん」から「チベットの貴族」という書籍*に「家の名前が載っている」と示された、と書いています。(私自身はあまり興味がないのでギャリとかテトンとかタクラとかタリンとか、著名な人や現在も活躍している人の家の名をいくつか知っているにすぎません。申し訳ありません)
 で、そういう関係の、貴族に詳しい方々が、「テンパ家……、そういう名の貴族は聞いたことないなあ」と首をかしげるのです。

 *「チベットの貴族」…と写真報告集にはありますが、その和訳した名称だけではその資料が特定できないでいたところ、写真に写る本の表紙をみた専門の方が「ああ、これは『西蔵貴族世家(1900-1951)』(五洲伝播出版社)の英語版ですね」と一目で看破。
http://www.amazon.co.jp/dp/7508509374/ref=cm_sw_r_tw_dp_eu9Pqb0P97HQW/378-5854506-4955014  (おお、アマゾンで出てくる。)
 ここは書名の引用も正確にしてほしいところ……!
 
 そして、看破した専門の方からは間髪いれず「今手元にある中国語版で、『テンパ』に近い発音の氏名を索引からみてみると、一番近そうなので『通巴 thon pa』(トゥンパかトンパ)という名前がありました。」とアドバイスが。
 専門の方によれば、トゥンパ(トンパ)家は「18世紀には政府高官も任命された人も輩出している家柄」で、ラサマニア氏の話では「トゥンパ(トンパ)家なら、トゥンミ(トンミ)・サンボータに連なるとしてトゥンパ(トンパ)=トゥン(トン)の人、という氏を持った一族だ」というのです。めちゃ歴史ある家柄です。

 「テンパ」(丈夫、元気、頑強という意味を持つ、チベットでよくある名前のひとつ)とは大違いらしいのですよ…。

 一方で、小松氏の写真記録集の「テンパ氏」はこんな家柄だそうです。

 彼の話に寄れば、テンパ家はチベット貴族として由緒ある家柄で名高いのだと言う。
 驚いたことに、ダライラマの宗派、ゲルク派の創始者、開祖のツオンカパの末裔だというのだ。

 ツォンカパの末裔と、トゥンミ(トンミ)・サンボータにゆかりある一族では、たぶんだいぶ違います。ツォンカパは「(アムドの)ツォンカ(地方)の人」という意味で、素直に考えると末裔もツォンカ地方(現在の青海省)にいるんじゃないかと思いたくもなりますが、子孫(というかツォンカパはゲルク派で妻帯しなかっただろうから子どもはいないので、甥や姪の子孫ってことになるけど)がラサに移り住んでもべつにおかしなことではないので、……となると、推測であてはめた「通巴(Thon pa)」氏とは違うということになり……、振りだし以下の状態に!!!

 つまり、これも、せっかく探し当てたというなら、「西蔵貴族世家」の該当部分の引用をしてくれればいいだけの話なのに、とじだじだ思うわけです。耳でコピーしたあやふやなカタカナ書きではなく、書籍に記載されている氏名のチベット語表記、でなければせめて英語表記、それができないなら最悪中国語表記でいいから記載してくれれば……。
 せっかくの世紀の歴史的事実の発掘が、「そんな名前の貴族、聞いたことがない」なんて詳しい人から言われるオチになってしまうとは、あ~あ、残念すぎる…!!

「テンパ家」と「ラブランニンバータラ」

 写真報告集(41ページ)には、テンパ家について

 驚いたことに、ダライラマの宗派、ゲルク派の創始者、開祖のツオンカパの末裔だというのだ。

と説明しています。そして、同じページには、ノブラの実家があった場所=テンパ家の住まい、「ラプランニンバータラ」について、次のように解説しています。

 話しはノブラーの実家に戻るが、その家にソラドジさんの家族も以前は住んでいたという。いまは、店舗や住宅として多くの人々に貸しているというのだ。
 そしてさらに驚いたことに、この家には、ゲルク派の開祖であるツオンカパも一時期、暮らしていたという。ソラドジさんの祖先の功績により、ツオンカパからこの家を賜ったのだという。

 えっと、これ、ツォンカパの末裔である「ストップ」さんの先祖(イコール、ツォンカパってことですよね)が、功績を上げたことで、ツォンカパから家を賜ったことになって、なんだかめちゃくちゃではないでしょうか…。

 ラサマニア氏の話では、「ラプラン*ニンバ」というバルコルの第3コーナーにある邸宅に、14世紀の大僧侶ツォンカパが一時滞在した、という逸話があるのはその通りだそうです。
*ラプランというのはアムドのサンチュのラプラン・タシキルの通称「ラプラン」もそうですけど「リンポチェなど高位の僧侶の住まい、邸宅」という意味があるようです。

根拠薄弱

 写真報告集42ページによれば、「ストップ」さんは小松氏に、「実は、子供の頃に、母の叔母さんで日本の軍人と結婚して、日本に行った人がいると、母から聞いたことがありました」と打ち明けています。「文化大革命の時代、とてもそんなことは言えないので、長い間、封印してきた」とも。
 なんという歴史の悲劇でしょう。
 そんなことで嘘をつく意味はないので、「ストップ」さん一家が矢島保治郎の妻ノブラーの縁者であることは結果として間違いない(突然日本から訪ねて来た人の熱意に押され、迎合して、期待される通りに口を合わせてしまった、というシチュエーションでない限り)、と、は、思います。
 ……思うのですが。
 結局、ノブラーが「テンパ」家の人だという根拠は、「ストップ」さんの証言だけになってしまっているのです。

 「ラプランニンバータラ」がノブラーの実家であるという記述は、『入藏日誌』の、以下の部分からです。

 得意の絶頂にあった矢島はラサのラブランニンバータラに住む商人ツォンペンオンジュとポージュレの間にできた次女のノブラーを娶りダライラマの夏の離宮、ノルブリンカに住んだ。
(133ページ/第3部「矢島保治郎の足跡」金井晃)

金井晃氏が矢島保治郎の生涯をまとめた部分で、どの資料を解いてこの場所と人名を引用したのかは記載されていません。もちろん、保治郎本人から聞いたのかもしれません。

 写真報告集によると、子孫判明の経緯は次のようなものだったと読めます。

  1. 小松氏が「ラブランニンバータラ」を探したい、とガイドに相談
  2. ガイド「知ってますよ」
  3. 小松氏「なぜ知っているんだ」
  4. ガイド「母から聞きました。祖母は貴族でした」
  5. 小松氏「ラブランニンバータラを知っている一族とはノブラーの末裔に違いない!」
  6. ガイド、ラブランニンバータラ所有者として母のいとこ「ストップ」さんを紹介する

 これでは結局、「(1915年当時)ラブランニンバータラに住む」と「(2012年)現在の所有者である」にまっすぐ線を引いてしまっている状態です。100年近くの間に、しかもその間には1951年や1959年をはさんでいるのですから、建物の所有者は変わることだって十二分にありえます。
 文献に出てくる表記が確認された、と言いたいなら、同じ邸宅に住んでいる(た)ことだけでなく、名前の一つや二つ――保治郎の記録や資料に出てくる人名「ツァムチュ」「ラティ」「イシェガ」、「ツォンペン」「ニンチャン」「オンジュ」「ポージュレ」、どれかと結びついて、初めて、確証といえるのではないでしょうか。いずれ原語とかけはなれたカタカナ表記ですけど、これだけの人名が出てきているのに、どうして突き合わせ検証作業を試みた風もないのか…。

写真報告集41ページ
「僕が日本の資料で、ノブラーの実家が『ラプランニンバータラ』という場所にあることだけが分かっていたので、何んとかその場所にだけでも辿り着けないかと思っていたのだ。しかし、その『ラブランニンバータラ』というのが地名か、建物の名なのかさえ分からなかったのである」

 私が「『ラプランニンバータラ』とあるけど…(保治郎の何の本に出てきたんだろう?)」と言いかけた時の、ラサマニアTT氏の反応は、「えーっ、ラープランニンバ? バルコルじゃないすか。マキアマの斜め向かいですよ。対面はツァロンの家があったとこですよ」というものでした。
 ――「ラブランニンバ」、ラサを知る人にとっては無名でもなんでもない、ちょう有名なお屋敷のようですが…。さて、さて。

 ◇

 ……と、保治郎の妻ノブラーへの手掛かりの、どうも結論にたどりついたっぽいにもかかわらず経緯が乱暴すぎてじたじたする、という印象は、写真報告集の至る所にありまして。

チャムド地区はチベット族の独立運動がカム地方と並んで激しい地域で、外国人の立ち入りは今も厳しい。(中略)ロロン県で

チャムド地区もカム地方なんですが…。どうも、チベット地名のスケールをご存じないまま字面だけ並べている感があります。そして「独立運動」…。矢島保治郎がチベットを離れた後に独立運動が激しく続いた地域だとは思いますが、どうも、当時ではなく「現在」の話をしているようで…。

チベットを貫流する大河・ヤルザンポ川にそってさかのぼる。川向こうにあるウー・ツァン村はダライ・ラマ13世の生誕の地だ。

これもチベットの大まかな地域区分を耳にしたことがあるなら、「ウー・ツァン」が「村」なんてことには……。ダライ・ラマ13世は、チベット自治区南部(ウ・ツァン地方のなかのロカ地域)のタクポのランドゥンという場所で生まれたとされています。
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/successive.html

プロジェクトを進めてきた小松氏の熱意と意欲をひしひしと感じるだけに、細かいところで「ええっ!?」と引っかかってしまうのが残念で、これまでに残った謎を解き明かす糸口を追いかけようとすればするほど欲求不満がつのる、というなんとも不思議な保治郎展でした。で、それと反比例して「自分が現地に行ってこの眼で見たい」という気持ちはハンパなく高まるという、とても刺激的な展示会でありました。

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2012.11.17

矢島保治郎展in前橋2012

 前橋市で18日まで開かれている「生誕130年記念 上州の探検家・矢島保治郎―中國・西蔵30,000kmの旅― 小松健一作品展」に行ってきました。

 岩手花巻の多田等観展でも感じることですが、地域史や郷土史の視点から日本とチベットの関係を見上げて、チベットを扱う機会が多面的になるのはほんとに素敵なことです。カメラマンの小松健一氏が、今年2012年が矢島保治郎生誕130年、来年が没後50年となる節目に合わせ、数年前から企画されたそうでした。
(写真左が小松氏、左は矢島保治郎の長女仲子さん)Rimg0137 
 小松氏は、8年ほど前に「ある人から偶然聞いて」矢島保治郎のことを知ったそう。小松氏は岡山生まれですがお母さんが上州群馬の方で、群馬で育ったこともあって親近感を感じたのと、「群馬県人でさえ矢島保治郎をほとんど知らない。もっと広めなくては」と考えて、生誕130年に照準を絞ったとのことでした。
 (8年ほど前…。それは前橋時代の私が1人で保治郎インマイムーブメント状態だった2004年ではないですか…笑)
 2010年には仲子さんとともに成都まで行かれています。

 展示は、矢島保治郎の足跡の地をたどる紀行写真がメイン。
 「中国・西蔵30000kmの旅」と副題がつけられ、「世界無銭旅行者」を自称した冒険者としての矢島保治郎に焦点が当てられていました。
 写真は、「30,000kmの旅」と銘打つだけあって、横浜から上海、南京、北京、成都、重慶、ダルツェド、リタン、バタン、チャムドを経てラサ入り(第1次)、カルカッタ、ダージリン、カリンポン、ガントク、ヤードンを経てラサ入り(第2次)したルートをくまなく追跡。来場した人からは「私もネパールを1カ月ほどトレッキングしたのでこういう光景はなつかしいわ…」なーんて会話も交わされていて、参加者は、郷土人保治郎に興味を持つ地元の年配者のほか、写真撮影や海外旅行に興味がある中年女性らも多い印象でした。
(写真はギャラリートークの様子)Rimg0144 

 ギャラリートークの写真を見るとわかりますが、保治郎ゆかりの品々の展示は、会場中央のガラスケースのみです。そのガラスケース3つのうち1つは、小松氏がヒマラヤ各地で集めた民具や古布、仏具などで、保治郎ゆかりの品々は残り2つだけでした。
 これを十分とみるか、物足りないと見るかは……。


 さて、個人的に楽しみにしてきた、独立チベット国の品々。

Rimg0154
 ラサから送られた手紙の封筒。紋章がかっこいい、というかセンゲが可愛い。表書き(下側になっていて読めないので、隣にコピーが展示してある)は、切手が貼られた状態ではないので、多田等観の帰国時に託されたものではないかと思います(確認し忘れました)。チベット語で「ヤジマ ヤスジロウ」、その下にローマ字で「ヤジ マ ヤスジロ」。差出元は「フロム、ラサ、チベット」と読めます。Rimg0174

 生前の保治郎とノブラーが写った貴重な写真の数々は、展示会場内のパネル1枚に簡単にひとまとめに額に入っていました。Rimg0175

 2012年5月に小松氏がラサで撮影した写真。
 写真説明は「八角街の一角にあるデンパ・ノブラーの実家。デンパ家はゲルク派の開祖・ツォンガバの末裔としてチベット貴族の名家として知られている。中庭の柱などにはかつての絢爛さが残っていた」となっていました。(……)
Rimg0188

 「矢島大人」「弟 等観」と添え書きのある書。これは、多田等観が保治郎を訪ねて前橋の自宅を訪れたとき、その場で書いたもので、その時のことは、同席した仲子さんも覚えているそうです。
Rimg0182
 今回展示されていたチベット語の直筆手紙などはこれひとつだけ。(保治郎とノブラーにあてラサの両親から送られた手紙などは、スペースの関係で持ち込まなかった、とのこと。)
 書きかけのまま投函されることはなかったノブラー直筆の手紙です。
 長い半紙に墨でしたためられています。ノブラー亡き後も、保治郎はくるくると巻いて、他の手紙類と一緒にすずり箱に閉まっていたそうです。仲子さんにはその箱を「触るな」「開けるな」と厳しく言っていたそうで、仲子さんは「ダメだ、と言われると見たくなるので、こっそり開けてみた記憶があります」と話していました。
 横向きに展示されているので、読める方にも読みにくいでしょうが(私は読めません)、読める人にとっては、読みにくい以上に、筆跡、スペルの綴り、内容、言葉づかい、……すべてがなんともいえない気持ちになる手紙(の下書き)だ、とのことでした。

 以上、保治郎展レポートでした。
 (え、「それだけか」ですか。はい、蛇足がありますよ…。蛇足を描くためにここまで書きましたよ)
 「蛇足 残る謎」へ続く

 

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