2011.05.07

(コラム訳)On Mastiffs, Typography and the Taming of Tibet―チベタン・マスチフと書体デザインからみえる「飼い馴らされたチベット」

 おおっ、チベット本土情報翻訳(英語)&論考系個人サイト「High Peaks Pure Earth」筆者のデチェン・ペンパさんが個人ブログ「Dechen's Blog」でチベタン・マスチフを題材にした日中合作アニメ映画とその主題歌歌ってるalanについてコラムを書いてるよ! ということで、勢い余って訳してみました。
 原文はこちら。


 先週、内外チベットで大きな話題を集めた「シャパレ・ラップ」を紹介しましたが、今回のコラムではそれと正反対の、中国当局が間違っても禁止することはないミュージックビデオを紹介しようと思います。

Babil04

 6月28日に中国で公開される新作アニメ映画「チベット犬ドルジェ(Tibetan Mastiff Dorje)」の予告編を兼ねたミュージッククリップです。歌っているのはalan(アラン・ダワドルマ)。
 中国の国営メディアによれば、「チベット犬ドルジェ」は日中合作アニメーション映画であり、そのことで、なぜalanが主題歌に起用されたかの説明がつきます。現代チベットポップカルチャーにハマっている人なら、ダルツェド生まれのアラン・ダワドルマが、日本のJポップ界でスマッシュヒットしていることをご存じのことでしょう。(*1)
 彼女はまた、2008年にジョン・ウー監督が制作した2部編成の大作映画「レッドクリフ」の主題歌を歌ったことでもそこそこ知られています。
 もし誰か、なぜ彼女が自分を「alan」と呼んでいるか説明することができる人がいるなら、私はそれをぜひとも知りたいものです!(*2)

*1:ダルツェドは育ちで、出生地は違ったと思うけど^^
*2:両親の名から1文字ずつ取って芸名にした、とどこかで見た覚えがあります。出典が探し出せませんが…。デチェンさんに教えてあげたい! と思っていたら、ブログがアップされた当日のうちに、速攻でコメント欄に誰かが書き込んでいました。(はやっ!!)

 映像を見るお手間をとっていただいて恐縮です。ミュージックビデオをわざわざ見ていただいたのは、短いビデオの中に、注目すべきいくつかのポイントが凝縮されていると感じたからです。
 まず一つはチベタン・マスチフ。
 報道によれば、「『チベット犬ドルジェ』は、西南中国チベットの高原を舞台に、10歳の少年テンジンと彼が救ったマスチフ犬を主人公としたベストセラー小説が原作」(中国西藏新聞網2011.03.23)なのだとか。
 チベタン・マスチフの実物とその関連物に対する、中国のにわか成り金たちの飽くなき欲求に応え、大手アニメ会社がマスチフを題材として取り上げるのは、興行的に十分に理解できることです。成り金中国人はステータスシンボルとしてのチベタン・マスチフにとりつかれていて、先月、ある石炭王が赤マスチフに150万ドルを支払ったという話がニュースになるほどでした。(*3)
 チベタン・マスチフはまた、ここ数年、小説の素材としてもむさぼり消費され、中国では、チベタン・マスチフが登場するベストセラー作品がいくつも生まれています。

*3:成り金にマスチフが売れているといっても、アニメは別モノでしょう、客層が違うでしょう? と思ったらどっこい、 「alan 中国語版新曲《呼唤》PVを《中国第七回チベット犬展覧会》で初公開」とあり、チベットから遠く離れた東北地方の都市瀋陽で開かれた「チベット・マスチフ品評会」(ドッグ・ショーみたいなものだよね?)で映画のプロモーションをしたそうです。YouTubeの動画ではalanがミニライブで歌ってます(映ってないけど会場にはマスチフ1000頭が展示されてるはず)。アニメ映像はここが初披露だったらしい。なんかすごい世界だ。

Tibetcodeandmastiff

 そのなかでも有名なものが、今回のアニメ映画原作でもある楊志軍「蔵獒(チベタン・マスチフ)」=上画像右=や、何馬「蔵地密碼(チベット・コード)」シリーズ=上画像左=です。チベット・コードは2008年3月(皮肉なことにも)に第1巻が発売され、大ヒットとなり、現在9巻を重ねています。私は第1巻を読んだだけですが、基本的に、伝説のチベタン・マスチフを登場人物すべてが探し回る、という筋立てでしかありませんでした…。
 ちなみに、個人的なチベタン・マスチフもののお気に入りは、80年代に「ラサへ帰ろう」http://goo.gl/Jv7nc が大ヒットしたロック歌手・鄭鈞が描いたコミック作品「搖滾蔵獒(チベタン・ロック・ドッグ)」です。

Tibetanrockdog
 こうした出版作品を通じて、私は別のものにも注目するようになりました。それが今回取り上げたいもう一つのテーマ、フォント(字体デザイン)です。
 「チベタン・マスチフ(蔵獒)」や「チベタン・ロック・ドッグ(搖滾蔵獒)」表紙の、文字上部に覆いがついたような修飾のデザイン文字を見てください。これは、中国語の漢字字体をチベット文字に似せようとデザインされたフォントの好例です。別の言語の文字をまねてそれらしい雰囲気にする陳腐なフォントデザインは、一つのジャンルとして「シミュレーション・フォント」と呼ばれています。例えば英語のアルファベットをアラビア文字に似せる「アラビック・シミュレーション・フォント」の例がこちらのサイトにまとめられています。
 私はここ何年も、この「チベット文字風漢字フォント」にハマっていて、目につく物をコレクションしていました。(*4)
 このフォントデザインに最初に言及したと思われるのは、アート系サイト「単位.org」http://goo.gl/4oatb で、そこでは「Tibetan-style Chinese(チベット風漢字)」と名付けられていました。「チベット文字風漢字」の流行は瞬く間に共産中国全体に広がり、ブックカバーからアルバムジャケット、食品の包装紙に至るまで、「チベットの」とつくものなら基本的にどこででも目にするようになりました。そしてとうとう今回、alanのミュージッククリップで、この字体で字幕がついているのを初めて目撃するに至ったのです。

 このフォントには、alanが中国語とチベット語と英語の3カ国語を駆使して歌っているのと同じくらいウットリさせられます。alanのファンフォーラムによれば、この「The Call(呼喚)」の日本語版もどこかにあるようです。(*5)

*4:原文からURLが取り出せずここで直接リンクできませんが、原文サイトhttp://goo.gl/Gmvnq にスライドショーがあり、デチェンさんが収集したチベット語風デザインロゴの使われているレストラン看板、映画ポスター、食品パッケージ、装丁、ウェブサイトのバナー、ポイントカード、などなどの画像が見られます。けっこうな量で、興味ある人はぜひ。 
*5:ツイッターで流したときは「ないと思います…」とつぶやいてしまいましたが、私が疎かっただっただけで、今年3月2日発売のベストアルバム「JAPAN PREMIUM BEST」のボーナストラックとして収録されていました。日本語題「ECHOES」、
音源がYouTubeに上がっています

 チベタン・マスチフ、歌手、音楽、チベット文字風漢字 ―― これらすべての共通点は、エキゾチックに演出強調されたチベットやチベット人である、という点です。今後、私はこのテーマについて学究的に取り組もうと考えています…。
 中国のこれまでのチベットに対するイメージは「粗野な未開の土人」であり、このようなエキゾチックな演出は、チベット人をニュートラルに扱い、宥和させるものでもありました。字体フォントでさえ、チベット文字には、ただ「目新しい」という以上の意味はないのです。
 これは居心地の悪い政治的介入を巧みに避ける方法の一つでもあります。「未開の土人」は、いまや、「エキゾチックな先住民族」につくり変えられました―― これははたして、チベットが飼い馴らされたことを意味するのでしょうか?


 ……すみません、わーいalanだalanだと思って訳してみたんですが、デチェン・ペンパさん、alanの歌やパフォーマンスにはほとんど触れてくれませんでした(笑)。欧米系チベット人からみて、J-pop系チベット人アイドルという存在がどう見えるのか、褒められるかけなされるかだけでも聞いてみたかった(笑)。
 そしてデチェンさんは英語ネイティブな方なので、すいません、英語自体がよく分からないけど勢いで解釈してみた、なところがあります。最後の、チベット文字風漢字フォントについて「うっとりする」と書いている部分にしても、文字通り「これは面白い、すばらしい」と言っているのか、表面的には褒めているけれど実際には皮肉って「チベット文字やチベット文化が単なる商業デザインとして消費され、見た目だけのチベットっぽさが売りにされたところで、チベット文化の本質は何も伝わらないし、中国人富裕層の消費するチベットと、チベット人自身にとってのチベットは乖離していくだけだ」という意を含ませているのか、私にはわかりませんでした。イギリス英語に長けたチベット関係の方にはぜひ原文を読んでいただければ幸いです。
(まあデチェンさんにはいつか直接会うことがあればゆっくり話を聞いてみようと思います。)
 

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2010.12.07

モンゴルとチベット かつての出来事1(訳)

 在日モンゴル人作家ダシ・ドノロブさんが「民主中国」に寄稿したコラムです。
 先日の「チベットの歴史と文化学習会」でテーマになっていたドルジーエフについてモンゴル人の視点から触れておられたのが興味深かったのでざっと訳してみました。チベットでのいわゆる「双語教育」についても、経験者の視点、隣人の視点、ある意味“双語教育”が成功し漢語を自由自在に使いこなすお立場からの視点、そして日本というさらなる「異民族の言語の海」に飛び込まれた視点からの指摘をもっとうかがってみたいと思いました。

 原文はこちら(「民主中国」达希东日布:蒙藏往事(一)) 。表題は(1)となっており、文章も「続く」となっていて、何回かの連載となるようです。

  蒙藏往事(一)(モンゴルとチベット かつての出来事 その1)
                    ダシ・ドノロブ(モンゴル人作家)
 2010年10月21日、たまたま次のようなニュースを目にした。
 ダラムサラ発の「国際西藏郵報」(The Tibet Post International)で、記事は「『1913年蒙藏条約』国際シンポジウムがモンゴルの首都ウランバートルで開かれ、モンゴル、インド、米国、韓国、ロシア、カナダ、台湾、オランダ、ドイツからの専門家が参加した」というもの。報道によると、「今回のシンポジウムは、モンゴル内外の学識者27人で組織する研究団体を含め、1913年にモンゴルとチベット両国で交わされた友好同盟条約と締結の合法性をテーマに討論する。この条約を締結したことにより、モンゴルとチベットは相互を独立国家として承認したことを宣言した」という。
 その記事で、私はある人を思い出した――ダライ・ラマ13世の外交官、ブリヤートモンゴル人のドルジーエフである。多くのブリヤートモンゴル人同様、彼の名前も非常に特徴的で、前半部分の「ドルジー」はチベット語の単語「ドルジェ」からの借語、後半部分の「エフ」はロシア語の語尾である。このドルジーエフこそが、1913年に「蒙藏条約」を調印したチベット側代表者なのだ。
 一編の新聞記事に、私の好奇心が刺激された。このブリヤートモンゴル人はどのようにしてチベット政府の代表となったのだろうか? この条約が締結された当時の国際情勢はどのような状況だったのだろうか? まるまる100年の間、モンゴル人とチベット人――この、同じ宗教を信仰する二つの民族はどのような歴史の過程を歩んできたのだろうか。

 まもなく、私は図書館で1冊の本を探し当てた。書名は「ダライラマの外交官ドルジーエフ チベット仏教世界の20世紀」。1ページ目を開いた私は、次のような描写に読み至った。

 ――1900(明治33)年の夏の盛り、1人のブリヤート人僧侶が上海からの客船より長崎の港に降り立った。
 彼の名前はアグワン・ドルジーエフといった。当時40代後半の男盛りで、がっちりとした体躯、黒い肌、鋭い眼光、大きな頭顱(とうろ)、そして何より意志の強さを感じさせる率直な顎骨の形が、会う人に強い印象を残したはずである。彼は、ダライラマ13世の使者として、ロマノフ王朝のツァーリ(皇帝)、ニコライ2世と会うためチベットの都ラサからロシアへの旅の途中であった。日本に来ることになったのは、義和団事件の発生によって天津、北京から内陸を通ってロシアへ向かうことができず、海路ウラジオストックを目指したためである。

 初めて日本に到着したドルジーエフは、日記にチベット語を用いて次のように記している。

 リピンともいう日本の、長崎という町に到着した。そこには仏教寺院が多くあるものの、礼拝する者は少ない。また人口が多く土地は狭い。自分の民族のみを尊び、どこへ行っても日本のことを考えていない者は誰もいないようで、国内は非常に安定しているために大国になった。そうすると、日本が世界で名声を博したのは、国内の安定に拠るようだ。

 この段落を読み終えて、私は、ドルジーエフのこの旅行は外交目的であったことを推測した。あの列強が横行する時代に、チベットやモンゴルのような弱小民族が自身の民族の利益のために列強の各大国と渡り合わなければならず、縦横に交錯するそれぞれの覇権主義勢力のパワーバランスを縫って、民族が生き延びるための隙間をさぐらなければならなかったのだ。日本とロシアのはざまのモンゴル人と、イギリスとロシアのはざまのチベット人は、宗主国である清王朝の絶体絶命の窮地に直面して、何を捨て、何を選びとるべきだったのだろうか。
 当時、漢人の革命党人員(訳注:辛亥革命)はとっくに「駆逐韃虜、回復中華(打倒満州族、中華復権)」という民族主義のスローガンを叫び、「鉄血十八星国旗」をデザインし、「漢地18省に限った」独立運動を始めていた。(いわゆる鉄血十八星国旗とは、赤・黄・黒3色を組み合わせ、赤地と9角の黒色が「血」と「鉄」を象徴し、革命が必ず鉄血主義=武器と兵力=によるものであることを象徴する。黒い9角の星は、歴史書「禹貢」に記載のある古代の9州=冀、兗、青、徐、揚、荊、豫、樑、雍=を表し、事実上、モンゴル、チベット、ウイグルなどの「韃虜=ダッタン人の呼称が変化した蔑称、“異民族野郎”」の居住地域は含まれていなかった。黒い9角の星形の内外両側にある計18個の丸い黄色い星は漢民族の内地18省を表したもの。18個の星の黄金色は、満州人の立てた清朝「韃虜」と対立する漢民族すなわち「炎黄子孫」=炎帝と黄帝の子孫=を示している)

 当時の革命党員の「野心」は決して大きなものではなく、ただ「満州人ら異民族を追い払い中華を復権させる」、すなわち内地18省の漢人の主権を取り戻し、チベット(青海)、モンゴル(内外蒙)、新疆ウイグル及び満州(東三省)の主権はすべて漢人にはあずかり知らないものであった。これが、(辛亥革命の)革命党員が当初主張した民族主義(ナショナリズム)だったのである。
 武昌起義(辛亥革命の幕開けとなる武昌の兵士たちの反乱:1911年10月10日)から1912年10月まで、鉄血十八星旗は中華民国の国旗と定められていた。当然、崩壊寸前の清王朝に直面して、漢人の革命党員のみが自民族を守ろうと奮起したのではない。モンゴル人、チベット人の精鋭たちも座して死を待つことなく、漢人同様に立ち上がり、自らの民族国家を樹立しようと力を尽くし始めた。あるいはもしかしたら、ドルジーエフも、ロシアのチベット独立支持を求めてペテルスブルグに向かい、孫文は当時の満州を譲ることを条件に日本に対して漢地18省が独立することへの支援を取りつけ、清王朝の立場から見れば「国外の帝国主義勢力と結託し国家を分裂させる」挙動を取っていたのかもしれない。
 しかし、誰がどのように歴史を解釈しようとも、歴史的事実そのものが書き換えられはしない。少なくとも、我々はまず、この100年の間に結局は何が起きたかという事実を理解しなければならないのだ。
 このようにして、はるかロシアに旅立ったドルジーエフが、私にこの100年間のモンゴルとチベット両民族の歴史と現状を振りかえらせる契機となった。

 1.漢人の悲しみとチベット人の怒り

 2010年10月21日の「国際西藏郵報」(The Tibet Post International)で私はドルジーエフを思い出した。しかし、当時の丸一カ月間、チベットに関する主要なニュースは、アムド(青海省)で起きたいわゆる「双語教育(バイリンガル教育)」に抗議するデモの報道に占められていて、これはこれでまた私に、言語教育と民族文化の継承の危機の問題を思い起こさせるものだった。

 劉力は仲睦まじい3人家族で、来日して既に10年になろうとしている。彼が学んだ専攻は引く手あまたの分野で、現在はあるソフトウェア開発企業の役員となり、高い給料を受け取り、東京でも高収入家庭に属している。
 去年、劉力の両親は初めて親族訪問で来日して三世代が一堂に会し、本来であれば皆で大いに喜びあうはずだった。しかし、おばあさんは孫を見つめて悲しみに耐えられず涙を流し、おじいさんも傍らでため息をつくばかりだった。劉力の両親をこれほどまでに悲しませたのは、孫の「言語の問題」だった。劉力の息子は日本語しか理解できず、中国語は一言も話せず、祖父母と孫の世代は意思疎通の方法がなくなっていたのだった。
 あるいは、老夫妻の悲しみにはもっと多層的なものがあったかもしれない。まず、親子の情からみれば、祖父と孫の2世代の交流に言葉の壁があることは既に十分に彼らを気落ちさせるに足ることであろう。それ以外にも、我々はさらに彼らの心を傷つける理由があったことは軽視できない。このように自分の跡継ぎの世代が民族の言葉や文化を失う姿を目の当たりにするのは、ある種の心理的ショックとしては言葉の壁以上に強烈なものかもしれない。彼らの可愛い孫が、漢民族文化を伝える核心となる支柱―中国語―を失っているとは。まだましなことに、漢民族の全体からみれば、すべての漢民族の子供が同じ問題に直面しているわけではない。もしそうであれば、この民族そのものが滅亡の危機に瀕していることになってしまうのだ。後になって劉力は私にこう言った。両親は常に彼らに帰国するよう勧めるんだ、漢人の自分たちの場所に戻ってこい、家族を大切にして後の世代に言葉と文化を伝えてくれ、と。もちろん妻は断固として反対し、息子が既に東京の生活環境になじんでいることも考慮に入れた劉力は、帰国する考えは毛頭ないという。仕方のないことではある。彼は職業上の更なる飛躍のため、自らの意志で日本の「先進的民族」の言語の海の中に入ることを選んだ人間なのだ。
 では、我々は老夫婦の悲しみをどのように理解すべきなのだろうか。理屈からいえば、彼らの子孫1人当たりの生活水準は、中国のような発展途上国家の10倍に当たる。息子はコンピューター技師で、人がうらやむほどの安定した高収入を得ており、心身ともに物質的に満足できる消費生活を送っている。
 ここで、イギリスの著名な経済学者コーリン・グラント・クラークが提唱した幸福の定義を見てみよう。クラークは初めてGNP(国民総生産)の概念を用いて一つの国家経済の生活の質を評価した。これはいわゆる「個人の幸福」を解釈する方法で、クラークはまず「持続的に生活必需品を購入できるに十分な現金収入があることが必須条件」として、我々が幸福な生活のためには基本的な衣食住と交通手段が必要であることを理解させた。続いて、クラークは「(生活必需品に加えて)趣味や娯楽への欲求を満たすに十分な財産が必要」と分析した。これは例えば読書や知的好奇心を満たすためのインターネット接続などの精神文化生活といえるだろう。ただし同時に、コーリン・グラント・クラークは特に次のことを強調している。「伝統や伝統を継承するための欲望は必ず満足させなければならない。つまり祖先が伝統的に満たしてきた欲望は、将来的に子孫末裔に伝えられるべきものである」。彼はこれを「個々人の幸福として無視できない重要な構成部分」と認識している。
 劉力の両親にとって、自分の孫の身に起きたことはまさにこの最後の一項目が満たされないことに当たり、悲しみと幸福欠乏感の現任に当てはまっている。見たところ、民族文化をつなぎとめるか喪失するかは、人類の個人の幸福指数に直接に影響を及ぼすといえそうだ。

 2010年月、アムド(青海省)で、幸福だと感じることを脅かされた人たちが、街頭へ出て怒りを表した。彼らは劉力と異なり、異民族の都市へ移住したなどということはなく、個人の成功のために自らなにか「先進民族」の言語の海に飛び込んだというわけでもなかった。彼らが自分たちのふるさとで自民族の言葉の危機に直面しているのは、彼ら自身が選んだ行動の結果ではなく、政府の政策によって引き起こされたものであった。彼らはなにもせず、誰も招きいれず、誰も誘発しなかったのに、政府は突然文章を発表し、彼らの学校内の大部分のカリキュラムでチベット語で授業を受けることを停止するよう求めた。
 少し考えてみよう。もし北京のある漢族学校で、「国語(中国語)」と「英語」以外のすべての教科で、教科書をチベット語に変え、チベット語で学ぶことになったら、学生や先生たちはどのようなショックを受けるだろうか? ある人はこう反論するかもしれない。「中国語は『国語』であり、チベット語はそうではない」。よろしい、我々はこの2種類の言語が法律的地位において確実に不平等であることを認めるわけだ。我々はチベット語は中国語に比べて一段低い存在であると認めることになる。これが現状である。
 もっとも、チベット語がなぜ国語ではないのかといえばこれには二つの政治的原因がある。第一に、チベットは主権独立国家ではなく、自分たちの民族言語を法的に政府の言語にするすべがない。第二に、チベットは「自治地区」でさえなく、カナダのケベック州のようにフランス語を政府言語のひとつとして設定するすべさえもない。
 中国政府は我々がこのように言語の法的地位の不平等さについて論じることさえ面白く思わず、我々がこの種の不公平は漢民族のこの国家内の人口比例からして権力を一手に握ることに発するものだ、と論じることも許されない。当然、我々が言語に関する不平等な政策の合理性について分析することも認めていない。
 彼らは大いに自信たっぷりに中国語がその国土で独尊的な優先権を持つと主張し、悠然と語る。中国はカナダではなく、シンガポールではなく、スイスでもない。中国が、漢語(中国語)以外のいかなる民族の言語にも漢語と同等の法的地位を与えることがないのは中国の特徴である。甚だしくは、彼らは「中国が広く宣伝している民族平等は『民族の言語の地位の平等』とは違う」と放言する。このような言語の不平等政策が学校教育分野で体現されたのがすなわち「バイリンガル教育」なのである。
 チベットでの「バイリンガル教育」は元来、チベット人自治地域のすべての小中学校でチベット語と漢語2種類の言語を同時に教えることをいうものだと思う。理屈からいえば、チベット地域の漢族学校ではチベット語を教える義務はないはずだが、非常に不合理な事情のもと、現在は反対に、チベット人学校で元からあるチベット語の授業を減らし、あからさまな文化的絶滅政策が横行している。一種の「非我族类,虽远必诛(同族でなければ殺しても)」式の、狭隘で残忍な自民族中心主義を体現したものだ。まったく、同じ先祖に生まれなかったからといって何をあわてるのだろうか? まさか、あなた方の民族が強勢を誇っているからといって、ほかの民族の言語や文化を手段を選ばず根絶やしにしてもかまわないなどと考えているのだろうか? ナチスドイツが行った人種的特徴上の大量虐殺と比較しても、文化的意味合いでの民族根絶政策はさらに偽善性と残忍さを備え、柔らかい刀でじわじわとなぶり殺すようなものである。
 いわゆる「バイリンガル教育」政策の背後から、ひそかに隠れて囁く、怖ろしい呪詛の声を耳にするのは簡単だ。「チベット人どもを滅ぼせ!」。その声ははっきりと聞き取れる、凶悪な呪いだ。(続く)

(12月20日追記:「ダライラマの外交官ドルジーエフ チベット仏教の20世紀」(棚瀬慈郎、岩波書店)が手元に戻ってきたので、文章中翻訳されて引用されていた部分について、二重翻訳から原著の本文引用に戻しました。)

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2007.11.07

[2人展]巴絵 - Pictures Swirl

Swirl チベ友の糸井さんからお知らせいただきました。
 行けそうにないのが申し訳なく。(しかも告知アップも遅れてしまいました。申し訳なさ自乗)
 11月20日までの開催です。展示会は非チベ。

巴絵 - Pictures Swirl
小島佳典・糸井潤 二人展

会期:2007.11.7 - 20

会場:ギャラリー・ユイット
東京都新宿区新宿3-20-8-8F
03-3354-6808

在廊予定情報:http://d.hatena.ne.jp/kojimaitoi/

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2007.07.24

ITOI Jun 廓寥 ―― Empty Sky

Junitoi チベット難民のドキュメンタリーなども撮っている知人の写真家糸井潤さんから、個展の案内をいただいたのでご紹介。
 本当はもっと早くにいただいていたのですが、ブログ更新が滞っていてご紹介できていませんでした(ごめんなさい)。
 7月19日から、すでに始まっています。

廓寥 ―― Empty Sky
ITOI Jun
CORRESPONDENCE/LANDSCAPE 07
2007 7.19(Thu) ~8.3(Fri)
12:00~19:00(最終日18:00)日月曜定休
Gallery 工房“親(ちか)”
http://www.kobochika.com
〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿2-21-3
TEL/FAX: 03-3449-9271
地下鉄日比谷線広尾駅 出口2徒歩2分
●初日 7.19(木)18:00~20:00 オープニングパーティ
CHIKA 2007 VISION - 2

 久しぶりにお目に掛かれるかとも思ったんですが、8月4日は準備中のチベットアピールイベントで上京予定なものの、それ以前には仙台を離れられないな……。1日違いか……すみません。
 もう始まっておりますが、ご成功をお祈りしてます。

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2007.02.26

パリコレにチベット?

 「チベットをモチーフにした」って文字が飛び込んできてついまじまじと見てしまった記事。

Pari パリコレ:パリコレ開幕 07~08秋冬コレクション
07・08年秋冬ものプレタポルテ(高級既製服)コレクションが25日、パリで始まった。(中略)
◇好きな服を無頓着に着る~ミナ・ペルホネン
 ミナ・ペルホネン(皆川明)は色をさまざまにミックスした服を重ね着して見せ、どこか東欧の民族的服を連想させた。テーマは「好きな服を無頓着に着る」。「娘さんたちが村祭りで、好きな服を引っ張り出して重ね着するイメージ」で、無頓着に着ることが、逆に着る人のパーソナリティーを浮き彫りにする点を見せたかったと皆川は言う。また「流行とは離れて、伝統文化を大事にしていく必要性をモードを通して表現したかった」と指摘する。鮮やかな色合いはチベットの民族衣装に想を得たといい、手の込んだプリントや刺繍を縫いこんだスカート、スパッツ、ケープ、頭巾のような帽子など、どこか素朴さと温かみのこもった服だった。

 本文読むと違うんだけど、写真には「チベットの民族衣装をテーマにしたミナ・ペルホネンの新作コレクション」って書いてあったんだよー。ち、ちべっとぉぉぉぉ~? と思ってまじまじ見直したのでした。どこだろ。ヒョウ皮みたいな上着をはおってるあたりか?(^^;)

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2006.03.19

イベントレポート:THF講演会参加報告

 4週連続チベット・イベントの最終週(!)。
 THF(チベット・ヘリテージ・ファンド)の講演会「チベットの歴史建築物の紹介――10年にわたる研究と保護活動を通じて」。代表の1人ピンピンさんはTHFの仕事のため16日に離日しており、アンドレさんと平子さん2人から報告がありました。
 「協力者」なんて肩書き(?)だけもらってたものの、Webに案内をアップしたのみでほとんど手伝えず申し訳なく。が、会場には約30人が集まり、熱心に耳を傾けました。

THFDSCN2781  THF代表アンドレ・アレクサンダーさん=写真左=の話はまず、チベットの建築の歴史から。
 「7世紀の終わり、ソンツェンガンポ王が勢力を拡大し、ネパールから妃ブリクティを迎え、初めての寺院が建築された。当初はインドの影響が強かった建築物は、次第にチベット独自の様式を持つようになり、独特の町並みを形成していった」「ノルブリンカに残された壁画に描かれる中世以前のラサの様子と、1956年以前に撮影されたラサの古い写真はほとんど変わっていない」
 「歴史的に大きな転換点となるのは1965年に正式に中国政府が『チベット自治区』を成立させてから。1966年から1977年ごろまで、文化大革命に巻き込まれ、10年間に多くの寺院が破壊された。寺院の建物だけではなく、壁画や仏像も失われた」「一方で都市化が進み、1948年にはジョカンを中心とする1Km四方に限られ、あとはポタラ、セラ、ノルブリンカなどに集落が点在する状態だったラサの市街地は、2000年には十数Km四方、人口50万人規模に広がり、その50%以上が漢民族の移住者となっている」THFDSCN2768
 百貨商店の看板や企業広告、飲食店のネオン看板が並ぶ商店街(たぶんジョカンの前からポタラ方面に伸びる道だと思う)の様子を「背景にポタラ宮殿が写っていなければラサとは分からなくなってしまった」。参加者からチチチ、と舌打ちが(チベット人がいる!? と驚いた^^)。
 アンドレさんは1987年に初めてラサを訪問。「当時は(寺院は破壊された後だったものの)古い一般家屋はほとんどそのまま残っており、平屋根に厚い白壁、窓飾りのチベット建築の町並みが美しかった」と振り返り、「ラサの都市そのものが巡礼路を中心として発展してきた歴史をもつ。露店が立ち並び、一見して市中心の商業道路のように見えるパルコルは、雨が降って店がすべて閉まっていても人通りが減らない。巡礼者にとってパルコルは回ることに意義がある場所だから」と、ラサ市街の文化的、歴史的成り立ちの特徴を説明していました。
 「町並みが急激に変わるのは、1990年代初め、中国政府がラサ市街地の再開発を始めてから。厚い土壁のチベット建築を壊し、壁の薄い、質の低いコンクリートの建物が建てられた。一説には、この時期の建物は15年ほどしか寿命がないという。一方で上下水道の設備や暖房などインフラ整備は行われず、都市計画としても非常に低レベルな再開発だった」
 ふむ。中国では確かに、黄河流域以北(東北・華北・西北地域)の都市に限って暖房インフラを整備(ビルを建てるときにボイラー管を通してビル全体を暖める集中暖気システムをつける)してるようです。80年代の話ですが、当時から北京なんか一歩ビル内に入れば半袖で生活できるくらいあったかかったもんなあ。もちろん、ホテルとか留学生宿舎とか友諠商場とか、外国人が出入りするようなレベルの場所に限ってだけど。内陸の盆地で冷え込む成都とか重慶とかは逆になんの設備もなくてひどいもので(今もない! 韓国人は内装段階で注文建築してオンドルつけてたよ)、笑えることに、チベットは中国政府的には“西南地域”(=暖かいところ)なんだよね。華麗なる標高無視。ラサときたら真冬でも日中は10度くらいまで気温が上がり、夜中は零下15度近くまで下がる、真夏でも1日の寒暖差は20度くらいはある、という日本人の常識からも外れている気候なので、そりゃアンドレ代表の言うとおり、「ラサの気候と条件に合った都市開発をしなくては意味がない」のは当然だ(ほんとは、チベットに限らず、中国の各都市も、日本の市町村もそうなんだけどさ)。こういう、中央集権的行政施策のなりたちを思うときは「あ~『チベット政府』が存在してればねぇ」とは思うな。
THFDSCN2772  閑話休題、アンドレさんの話を続けます。
 アンドレさんたちは1993年から、せめて壊される前に、とラサ旧市街の古い建物を記録し、何が壊されたかをチェックする作業を始めたんだそう。「この写真で壊されている建物は、1700年前後に建てられたダライラマ法王の宮殿の一部」「3年間、ただ壊されていくのを見ているのはつらかった」。
 1996年、アンドレさんらは、チベットに関心のある有志を募り、古い町並みの修復と保存を目的とする「チベット・ヘリテージ・ファンド(THF)」を組織化したそうです。この行動力はすごいよ。なんたって相手は中国、場所はチベットだもん。
 「1996年、THFはラサ市政府と5年間の協定締結に成功しました。モデル保存地区を設定し、(1)その中の古い建物は壊さないこと。(2)建物を修復する費用は100%THFが出資すること。(3)ラサ市政府もプロジェクトに参加して、残すべき建物にサインボード(重点歴史文物、と書いてあった)を掛けること――の3点を約束しました」
 政府職人ではなく、民間の技術者を募って修復チームをつくり、居住する住民も参加する形で、建物修復保存プロジェクトを立ち上げたのだそうです。(すごい!)
 モデルケースの実現例として、パルコル内にあった元貴族の住宅「Rongda House」の修復と、やはりパルコル内で9世紀から歴史のある寺院「Meru Nyingpa」の修復活動を報告。いま使われている建材のうち再利用可能なものは再利用し、それ以外も伝統的な建材(土、木、石など)を使い、オリジナルな形を守りながら、トイレなど上下水道を整備する形で、現在の都市機能に合わせ改修したとのことでした。
 Meru Nyingpaはネチュンに属し、1959年にネチュンがダライラマ法王とともに亡命して以降メンテナンスされていなかったそうです。寺院自体も、主がいなくなったため、中国政府が数世帯の住居として割り当て、民間人が住んでいたとのことでした(1990年当時のサムイェも境内に民家がたくさんありました。「人民公社でここに来た」と言ってた。11年後に再訪したら、寺院の再建はある程度進んでいて、民間人は追い出されたらしくどっかにいなくなってましたが…)。
 チベット寺院の特徴である壁の赤い装飾「ペンデ」のため、伝統的な塗料を作ってる様子も紹介。大きな鍋を火にかけて何かをぐつぐつ煮込んでいました(怪し~^^)。ふつう塗料として使われる発色材料のほかに、「ミルク」「バター」「ブラウンシュガー」などを入れるのが伝統的な製法、と話していました(そんなもんを混ぜて壁に塗って平気とは、さすが高地の乾燥気候、さすが紫外線の殺菌効果だ)。
 このほか面白かったのは、チベットの伝統的な屋根の防水工事「アルガ」。
 カルシウムを含む石材を山から運び下ろし、細かい破片にしてつき固め、最後に油を塗って、チベット独特の平屋根を雨風から守り、雨漏りを防ぐのだそうです。完成した後は舗装したようにつるつるになるとか。ジョカンやポタラの屋上でよくみかける、丸い長い棒を持った女性たちがたくさん列を作り、歌を歌って調子を合わせながら前後に足踏みしている光景、アレです。よく見かける光景ということは、1回「アルガ」をしたら数年ほっといていい、という性質の防水加工ではなく、ひんぱんに歌を歌って屋根を固めて、建物を大切に守り続けていく、という工事なんだろうなあ。
 ラサ市内での事業は成功し、2000年までにTHFのプロジェクト関係者や協力者は約300人に。参加メンバーも、ドイツ、オランダ、イギリス、香港、チベット、そして日本人と、各国からの協力者を迎えたものに広がったとのことでした。
 しかし2000年、5年間の協定が期限を迎えたのを機に、ラサ市政府からは「十分にやった」と契約更新を断られます。協定の期限が切れたラサ旧市街は、再び古い建物が取り壊され、コンクリートのビルが建てられはじめたそうです。アンドレさんは、2002年夏に撮影したラサ旧市街の写真を示しました。ジョカンの一部が取り壊され、集合住宅の建設が始まっていました。THFDSCN2782 「中国の民間の建設業者が作っている、ただセメントを流し込んだだけの、集中暖房設備もない、壁の薄い質の悪い建物。利益主義で、儲けを出すために建設費を安く上げようとする結果、こういうものばかり作られる。これではチベットの冬の寒さにも適さないし、地震が来れば倒壊するだろう」とアンドレさんは悔しそうでした。
 講演ではアンドレさんも平子さんもあまり(あえて?)詳しく触れていませんでしたが、翌2001年、THFはチベット自治区内での活動に政府からストップがかかり、それまでラサ市内に置いていた事務所の立ち退き、メンバーの自治区外退去を命じられたのでした。最後の質疑応答で、「活動の成功例を見せてもらいましたが、失敗したケースはありますか」という質問に、アンドレさんは「……ラサの旧市街が壊されるのを防ぐことができませんでした」と応えていました。
 ……とまぁ濃い話が続くんですがこれで講演内容のまだ半分以下!
 全部書ききれないので後ははしょりますが▽アムド地方の寺院再建▽青海省南部カム地域でのチョルテン(仏塔)修復▽モンゴルのゴビ砂漠地方の寺院修復再現▽北インドのラダックの都市レーの町並み保全▽ラダックのアルチ僧院の修復――など、チベット文化圏の広い地域に活動を広げ、技術を提供している報告がありました。

THFDSCN2786  質疑応答では上記のほか「チベット自治区内の活動について、中国政府との交渉はどのように成功させたのか。今は認められていないのではないか」「旅行者のほうがフットワーク軽くあちこちに行くので『この建物はもうすぐ壊されるらしい』などの情報を入手しやすい面がある。そういう情報はTHFに提供したほうがいいのか」「チベットの伝統的建築は現代的な生活にも対応できるものか」「ジョカンの建築の内部調査はかなり貴重なものだと思うが記録は公表しているか」――などの質問や意見が交わされました。(質疑応答の詳しいやり取りは「ちべ者」さんで

THFDSCN2787 (参加者もゲストも立ち働いてのお片付け。お疲れ様でした→)
 終了後は飲み物とお菓子で軽い交流会。その後、少人数で和食風居酒屋へ(役得。ありがとうございました)。じっくり突っ込んだ話……をするには私の英語が壊滅的で(号泣)。聞きたいことあるのにどう言ったらいいか分からない、とか、質問に熱い答えを返してくれてるのによく意味が飲み込めないとか、ああもうほんと情けない。

 ひとり考えていたことは、ピンピンさんアンドレさんたちが考え、やろうとしていることは、日本のあちこちで今盛んに唱えられている地域活性化や町並み保存と、決して無縁ではないしかけ離れたものではないんだろうな、ということでした。
 群馬県がやってる近代化遺産の保存活用(「世界遺産にする」とか言っちゃってるし)は民間からの動きじゃなくて行政主導型だけど、イギリスから学識者連れてきて県庁で講演会開くとか、「外国人もスバラシイと言ってる!」てのがハクづけに利用されてる例。逆に、詳しくは知らないけど広島県福山市の鞆の浦地区は、架橋工事をめぐって景観保全活動が起き、住民団体がアメリカの世界文化遺産財団に働きかける形で「ワールド・モニュメント・ウォッチ」の指定を受けました。こっちは、外国人からの価値付けを得て行政に影響を与えようという民間の活動のケース。いずれにせよ「外国人が高く評価してるんだ」っていうのは一定の圧力になりうると日本でも思われているわけで、チベットでも中国政府を動かすための力になりえたのかな、など思ったり、……一方で、日本での景観保全活動や地域運動を思うに、利害関係やしがらみのある地元住民を巻き込んだ形での地域活動の難しさはチベットでも同じなのだろうか、とか。
 なーんてことはとてもじゃないが話せないまま、漠然とあれこれ考えて楽しい一夜になりました。もっと精進しようと思います。ありがとうございました。

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2006.02.22

THF講演会、東京(3月19日)も決定

 THF(チベット・ヘリテッジ・ファンド)講演会、京都に続いて東京も決定。
 →チベット・ヘリテッジ・ファンド東京講演会のお知らせ

日時 2006年3月19日(日) 午後3:00~午後5:00
(開場は午後2:50)
講演会場 唯称寺(東急目黒線 武蔵小山駅下車徒歩4分)
地図はこちら
講師 アンドレ・アレクサンダーさん
ピンピン・デ・アゼベードさん(Tibet Heritage Fund 代表)
平子 豊さん(THF 中国プロジェクト責任者)
主催 チベット ヘリテッジ ファンド(Tibet Heritage Fund)
定員 100人(先着順、定員になり次第締め切り)
参加要領 メールでの申し込みが必要。
参加希望の方はメールでお名前をtibemono@yahoo.co.jpにご連絡ください(個人情報保護の世の中ですから、住所や電話番号等は不要です)。折り返し確認の返事を差し上げます。
参加費 無料

 メールで連絡いただき、深夜帰宅後、朦朧としつつとりあえず裏ルンタのWeb更新。バックスキップキーとディレートキーを押し間違ったらしく、途中で一度全部消えたり。何をしたのかもうよく覚えてません。

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2006.02.15

チベット・ヘリテージ・ファンド(THF)講演会

 チベットの歴史的建造物の保全と文化的記録をしているNGO「チベット・ヘリテージ・ファンド」の代表が来日、講演会が開かれます。
 とりあえず京都での講演が決まり、関東地方(東京)では会場調整中とのこと。
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「チベットの歴史建築物の紹介――10年にわたる研究と保護活動を通じて」
日時 2006年3月14日(火) 午後4:30~6:30
会場 大谷大学「響流館」3階メディア・ホール
    京都市北区小山上総町(地下鉄北大路下車出口6番左すぐ)
講師 アンドレ・アレクサンダーさん
     ピンピン・デ・アゼベードさん(Tibet Heritage Fund 代表)
     平子 豊さん(THF 中国プロジェクト責任者)
主催 大谷大学真宗総合研究所 西蔵文献研究班

【講演内容】
 チベット建築文化の概観と「チベット・ヘリテイジ・ファウンド(THF)」の10年間の活動を、スライドやデジタルイメージと使いながら紹介します。英語、日本語2カ国語。

【開催趣旨抜粋】
 チベットの建築は、高原の厳しい気候の変化に堪えうる厚い石壁、土壁と陸屋根のどっしりとした外観、チベット仏教文化の育んだモチーフを基調とした手の込んだ彫刻、多様な色彩で飾られた美しい木製内部構造など、チベット独自の文化を代表するものです。しかし、中国の文化大革命や近年の開発政策下で、貴重な歴史的建築物が大きな危機にさらされています。「チベット・ヘリテイジ・ファウンド(THF)」は、こうしたチベット建築文化の保護に率先して貢献しようと、ドイツ、ポルトガル、日本、中国、チベット・ラサの有志により1996年に発足しました。
 THF はシステム化された方法で多様なチベット建築物を記録すると同時に、海外から募った基金を元にチベット建築の修復、保護をしています。さらに、実際の修復工事を通じ、失われつつあるチベット伝統建築工法の活用の場を提供し、若いチベット人に伝統技術を継承、技術者の育成もはかっています。
 これまで、チベットのラサ旧市街地、北インドのラダック地方レー旧市街地、中央チベット、東チベット(カム地方)、チベット北部(アムド地方)及びモンゴルのチベット仏教寺院の修復など、広範囲に活動を展開してきました。

【書籍の販売】
 講演当日は、THFの最新の出版物2冊が紹介、販売される予定です。国内の一般書店では手に入りにくい貴重な書物です。興味のある方はこの機会にお求めください。
■《Temple of Lhasa, Tibetan Buddhist Architecture from the 7th to the 21st Centuries》(ラサの寺院―7世紀から21世紀のチベット仏教建築)
■《A Manual of Traditional Mongolian Architecture》(モンゴル伝統建築マニュアル)

 THFの詳しい情報はこちらで→www.tibetheritagefund.org
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 2001年の留学当時、北京のTHFオフィスを訪ねたことがあります。胡同の四合院(北京市街地伝統の昔ながらの伝統建築)を借りていてさすがでした(笑)。
 平日午後の時間帯ですが、興味のある方はぜひ。
 東京での滞在日程では3月17~20日あたりになりそうとのこと。休日に開催してもらえるといいのですが。現在、講演できる場所その他を選定中だそうで、東京は場所代もかかってなかなかいい場所が見つからず困っているようです。

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2005.12.19

[イベント]講演会「ヒマラヤの宝探し」

 メンツィカンで学ぶ小川さんより講演会のお知らせがありました。
 おお、この前ダラムサラで会った人が今度は日本で講演会とは大忙しです。今は学期末の最終試験真っ最中だそうで、試験直前の多忙な中「チベット医学や東洋医学に関心のある人にPRして」とわざわざメールいただいてしまい恐縮。面白そうです。少人数の集まりだし。平日夜かぁ、仕事じゃなければなあー。

「ライブJ」~聴いて、話して、考えるイベント~ 第5回 ヒマラヤの宝探し
チベット医学の魅力をわかりやすく紹介。医薬の未来を考える。
話題提供者:小川康さん(チベット医学暦法学大学学生)
日時:2006年1月12日(木)19:00~21:00
会場:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟404号室
参加費:500円(学生・JYVA会員300円)
定員:20名(要事前申込み。当日参加可能)
問い合わせ・申し込みはリンク先へ

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2005.10.23

竹内淳子展 ~チベットの愛した歌~

takeuchi チベットをテーマに制作されている日本画家の竹内淳子さんから案内いただきました。年に一度は現地をスケッチ旅行されて、土の匂いや風の音も聞こえてきそうな作品を描かれる方です。実物みて迫力にびっくりした。なんとダヤン・ハーンのミニライブもあり!
 「竹内淳子展 ~チベットの愛した歌~」
 2005年12月13日(火)~19日(月)
 12:00~19:00(最終日は17:00まで)
 柴田悦子画廊(東京都中央区銀座1-5-1 第3太陽ビル2F)
 電話 03-3563-1660(fax兼)

 (案内より) チベットの僧侶であり歌人でもあったダライ・ラマ6世(ツァンヤン・ギャンツォ、17世紀後半)は、僧侶でありながら酒と女に溺れ、たくさんの恋歌を残した。政治の大きな波に翻弄され、若くして客死した彼の歌は、チベットの民に今も歌い継がれている。彼の絶唱と言われている「鳥よ」をテーマに、私なりに連作を試みてみた。公式サイト「ある日チベットで」 

 チベット古歌ライヴ
 2005年12月18日(日) 17時~
 柴田淳子画廊 竹内淳子展にて
 出演:ユカ(唄) ダヤンハーン(ダムニェン)

 出演者紹介
 ユカ 「却来花」ボーカルなどで活躍する川辺ゆかさん。チベット音楽はもとより、沖縄音楽からアイリッシュミュージックまで原語で歌いこなす。関西を中心に国際色豊かなセッションを展開。
 ダヤンハーン 本職は謎の(?)チベット学者。若き日に音楽家を目指したこともあり、ダムニェンはチベット人師匠について修行を重ねる。詳しくはダヤンウルス

 行けるよう(仕事の調整)がんばります! 楽しみ! 

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