矢島保治郎展in前橋2012 蛇足―残る謎
矢島保治郎展の蛇足、いきます。蛇足ですので、ご関心ある方のみお読みください。
えーっと今回、私の何よりの関心事は、「ノブラーが高名な貴族の娘であることを突き止めた 」という1点だったりするのでした。
保治郎といえば妻「ノブラー」。
チベット史上初めて日本人と結婚し、チベット人として初めてたった一人はるか日本に嫁ぎ、日本人との息子を育て、異郷での生活わずか3年余りにして29歳の若すぎる生涯を終えた悲劇のチベット人女性。
謎の多い彼女の人生をもっと知りたい、と思っていました。
「ノブラーとは誰だったのか」「現存するはずの縁者はどこに」――。
「ノブラー」という響きはチベット人名らしくない、本当の名前はほかにあるのではないか。ノブラーとはノルブ(貴宝)にラー(日本語でいう「~さん」にあたる敬称)をつけた通称ではないか、という想像は『西蔵漂泊』(江本嘉伸著)などでも上がっていたことです。それなりの家柄の女性の、当時ほとんどなかった外国人との結婚や海を越えた国への渡航は1918年当時のラサの耳目を集め、人の記憶にも残るはず。知る人は1959年前後に亡命してインド側に逃れ散り散りになったのか、今もラサに残っているのか――。
それに、『西蔵漂泊』で触れられている、「ノブラーにはひょっとしたらもう1人子どもがいたのではないか」という謎もあります。
1922年にラサから送られた「おまえの娘、ラティとも皆元気にやっています」という文面の手紙。雪景色のラサ、保治郎と「ノブラー」に抱かれた長男意志信(イシノブ)のほかにもう1人、寄り添う幼い女の子が写った写真。ラティとは誰か。ノブラーは再婚または未婚の母で、意志信より上に長女がいたのではないのか、その長女はラサの実家に置いて日本に渡ったのではないか……という、大胆な仮説です。保治郎からそのことに関する話が語られた記録はありません。
展示会では残念ながら、「ノブラー」にはそれほどスポットはあたっていませんでした。
ただ、展示に合わせて発行された写真報告集には、2ページにわたり、「保治郎の妻テンパ・ノブラーの子孫 テンパ・ストップソナム・トップゲルさんに聞く」という顛末記が載っています。
「保治郎の妻であるノブラーの子孫にあたる4人と会うことができた」
「ノブラーの姪にあたる母を持つテンパ・ストップ・ソナム・トップゲル*さん」(ママ)
(*テンパ・ストップ・ソナム・トップゲルの記載は文中の表記。記録集の見出しと写真説明は「テンパ・ストップソナム・トップゲル」となっている)
えっと! 「ノブラーの子孫にあたる」とさらっと書いてある、ということは。意志信の姉「ラティ」の存在さらっと確認ですか!? ノブラーの本名は「テンパ・ノブラー」で確定なんですか!?!?
私「あの、ノブラーの本名は」
小松氏「時間が経ってて、そこまで分からないよね。今生きている人がノブラーの姪の子どもという関係だから、3代経ってるからね」
私(あ、子孫って、ノブラーの子どもの子ども…ではなく、兄弟姉妹の子ども…ということなのか)
私「ここに書いてある『テンパ・ノブラー』という名前は、正確な名前が判明したわけではなく、今回分かった家柄の『テンパ』と、これまで日本で呼ばれてきた『ノブラー』を合わせただけなんですね?」
小松さん「そうですね」(あっさり)
そ、そうですか…。なんて乱暴な…。
うわあああん……ああ、いろいろ残念すぎる…。
「ストップ」さんの謎
今回、小松氏のブログなどから「ノブラーの実家は『テンパ(デンバ)家』*だって!!!」とビッグニュースが回った時。
知り合いの、詳しい方の反応は、「…テンパ家?」「…ストップ?」というものでした。
*ブログや写真展案内状の記述は『デンバ』、写真報告集で『テンパ』表記
「『ストップ』じゃなくて『ソトプ』なんだろうな……」(詳しい人)
チベット人は名前を略してつなげて呼ぶことがよくあります。「テンジン・ドルジェ」が「テンドル」に、「ペンパ・ツェリン」が「ペムシ」に。キムラタクヤがキムタクになるようなものです。「ソトプ」は、ソナム・トプギェルの略称として非常にポピュラーな名前だそうです。
「ストップ」は、耳で聞いた発音をそのままカタカナ書きしたのでしょう。たぶん、「(テンパ)家のソトプことソナム・トプギェル」が全部書き出されてしまったのではないかと思います。
さらに「通称ソラドジ」、、それはソナムドルジェなのでしょうか…。結局、正確なフルネームがわからない!! 「ストップ」さんに名前をチベット文字で書いてもらうだけで全然違ったのに。せめてアルファベット綴りでも、それもだめなら最悪漢字表記であっても(通訳のウリウサさんは中国語で会話していると思うので)手がかりになるのに……。欲求不満が募るのでした。
「貴族のテンパ家」の謎
チベットの貴族については、それぞれの家柄が今もプライドを持って血筋を大切にしている側面があるぶん、研究がかなり進んでいるように思います。実際、小松氏も写真報告集で、「ストップさん」から「チベットの貴族」という書籍*に「家の名前が載っている」と示された、と書いています。(私自身はあまり興味がないのでギャリとかテトンとかタクラとかタリンとか、著名な人や現在も活躍している人の家の名をいくつか知っているにすぎません。申し訳ありません)
で、そういう関係の、貴族に詳しい方々が、「テンパ家……、そういう名の貴族は聞いたことないなあ」と首をかしげるのです。
*「チベットの貴族」…と写真報告集にはありますが、その和訳した名称だけではその資料が特定できないでいたところ、写真に写る本の表紙をみた専門の方が「ああ、これは『西蔵貴族世家(1900-1951)』(五洲伝播出版社)の英語版ですね」と一目で看破。
http://www.amazon.co.jp/dp/7508509374/ref=cm_sw_r_tw_dp_eu9Pqb0P97HQW/378-5854506-4955014 (おお、アマゾンで出てくる。)
ここは書名の引用も正確にしてほしいところ……!
そして、看破した専門の方からは間髪いれず「今手元にある中国語版で、『テンパ』に近い発音の氏名を索引からみてみると、一番近そうなので『通巴 thon pa』(トゥンパかトンパ)という名前がありました。」とアドバイスが。
専門の方によれば、トゥンパ(トンパ)家は「18世紀には政府高官も任命された人も輩出している家柄」で、ラサマニア氏の話では「トゥンパ(トンパ)家なら、トゥンミ(トンミ)・サンボータに連なるとしてトゥンパ(トンパ)=トゥン(トン)の人、という氏を持った一族だ」というのです。めちゃ歴史ある家柄です。
「テンパ」(丈夫、元気、頑強という意味を持つ、チベットでよくある名前のひとつ)とは大違いらしいのですよ…。
一方で、小松氏の写真記録集の「テンパ氏」はこんな家柄だそうです。
彼の話に寄れば、テンパ家はチベット貴族として由緒ある家柄で名高いのだと言う。
驚いたことに、ダライラマの宗派、ゲルク派の創始者、開祖のツオンカパの末裔だというのだ。
ツォンカパの末裔と、トゥンミ(トンミ)・サンボータにゆかりある一族では、たぶんだいぶ違います。ツォンカパは「(アムドの)ツォンカ(地方)の人」という意味で、素直に考えると末裔もツォンカ地方(現在の青海省)にいるんじゃないかと思いたくもなりますが、子孫(というかツォンカパはゲルク派で妻帯しなかっただろうから子どもはいないので、甥や姪の子孫ってことになるけど)がラサに移り住んでもべつにおかしなことではないので、……となると、推測であてはめた「通巴(Thon pa)」氏とは違うということになり……、振りだし以下の状態に!!!
つまり、これも、せっかく探し当てたというなら、「西蔵貴族世家」の該当部分の引用をしてくれればいいだけの話なのに、とじだじだ思うわけです。耳でコピーしたあやふやなカタカナ書きではなく、書籍に記載されている氏名のチベット語表記、でなければせめて英語表記、それができないなら最悪中国語表記でいいから記載してくれれば……。
せっかくの世紀の歴史的事実の発掘が、「そんな名前の貴族、聞いたことがない」なんて詳しい人から言われるオチになってしまうとは、あ~あ、残念すぎる…!!
「テンパ家」と「ラブランニンバータラ」
写真報告集(41ページ)には、テンパ家について
驚いたことに、ダライラマの宗派、ゲルク派の創始者、開祖のツオンカパの末裔だというのだ。
と説明しています。そして、同じページには、ノブラの実家があった場所=テンパ家の住まい、「ラプランニンバータラ」について、次のように解説しています。
話しはノブラーの実家に戻るが、その家にソラドジさんの家族も以前は住んでいたという。いまは、店舗や住宅として多くの人々に貸しているというのだ。
そしてさらに驚いたことに、この家には、ゲルク派の開祖であるツオンカパも一時期、暮らしていたという。ソラドジさんの祖先の功績により、ツオンカパからこの家を賜ったのだという。
えっと、これ、ツォンカパの末裔である「ストップ」さんの先祖(イコール、ツォンカパってことですよね)が、功績を上げたことで、ツォンカパから家を賜ったことになって、なんだかめちゃくちゃではないでしょうか…。
ラサマニア氏の話では、「ラプラン*ニンバ」というバルコルの第3コーナーにある邸宅に、14世紀の大僧侶ツォンカパが一時滞在した、という逸話があるのはその通りだそうです。
*ラプランというのはアムドのサンチュのラプラン・タシキルの通称「ラプラン」もそうですけど「リンポチェなど高位の僧侶の住まい、邸宅」という意味があるようです。
根拠薄弱
写真報告集42ページによれば、「ストップ」さんは小松氏に、「実は、子供の頃に、母の叔母さんで日本の軍人と結婚して、日本に行った人がいると、母から聞いたことがありました」と打ち明けています。「文化大革命の時代、とてもそんなことは言えないので、長い間、封印してきた」とも。
なんという歴史の悲劇でしょう。
そんなことで嘘をつく意味はないので、「ストップ」さん一家が矢島保治郎の妻ノブラーの縁者であることは結果として間違いない(突然日本から訪ねて来た人の熱意に押され、迎合して、期待される通りに口を合わせてしまった、というシチュエーションでない限り)、と、は、思います。
……思うのですが。
結局、ノブラーが「テンパ」家の人だという根拠は、「ストップ」さんの証言だけになってしまっているのです。
「ラプランニンバータラ」がノブラーの実家であるという記述は、『入藏日誌』の、以下の部分からです。
得意の絶頂にあった矢島はラサのラブランニンバータラに住む商人ツォンペンオンジュとポージュレの間にできた次女のノブラーを娶りダライラマの夏の離宮、ノルブリンカに住んだ。
(133ページ/第3部「矢島保治郎の足跡」金井晃)
金井晃氏が矢島保治郎の生涯をまとめた部分で、どの資料を解いてこの場所と人名を引用したのかは記載されていません。もちろん、保治郎本人から聞いたのかもしれません。
写真報告集によると、子孫判明の経緯は次のようなものだったと読めます。
- 小松氏が「ラブランニンバータラ」を探したい、とガイドに相談
- ガイド「知ってますよ」
- 小松氏「なぜ知っているんだ」
- ガイド「母から聞きました。祖母は貴族でした」
- 小松氏「ラブランニンバータラを知っている一族とはノブラーの末裔に違いない!」
- ガイド、ラブランニンバータラ所有者として母のいとこ「ストップ」さんを紹介する
これでは結局、「(1915年当時)ラブランニンバータラに住む」と「(2012年)現在の所有者である」にまっすぐ線を引いてしまっている状態です。100年近くの間に、しかもその間には1951年や1959年をはさんでいるのですから、建物の所有者は変わることだって十二分にありえます。
文献に出てくる表記が確認された、と言いたいなら、同じ邸宅に住んでいる(た)ことだけでなく、名前の一つや二つ――保治郎の記録や資料に出てくる人名「ツァムチュ」「ラティ」「イシェガ」、「ツォンペン」「ニンチャン」「オンジュ」「ポージュレ」、どれかと結びついて、初めて、確証といえるのではないでしょうか。いずれ原語とかけはなれたカタカナ表記ですけど、これだけの人名が出てきているのに、どうして突き合わせ検証作業を試みた風もないのか…。
写真報告集41ページ
「僕が日本の資料で、ノブラーの実家が『ラプランニンバータラ』という場所にあることだけが分かっていたので、何んとかその場所にだけでも辿り着けないかと思っていたのだ。しかし、その『ラブランニンバータラ』というのが地名か、建物の名なのかさえ分からなかったのである」
私が「『ラプランニンバータラ』とあるけど…(保治郎の何の本に出てきたんだろう?)」と言いかけた時の、ラサマニアTT氏の反応は、「えーっ、ラープランニンバ? バルコルじゃないすか。マキアマの斜め向かいですよ。対面はツァロンの家があったとこですよ」というものでした。
――「ラブランニンバ」、ラサを知る人にとっては無名でもなんでもない、ちょう有名なお屋敷のようですが…。さて、さて。
◇
……と、保治郎の妻ノブラーへの手掛かりの、どうも結論にたどりついたっぽいにもかかわらず経緯が乱暴すぎてじたじたする、という印象は、写真報告集の至る所にありまして。
チャムド地区はチベット族の独立運動がカム地方と並んで激しい地域で、外国人の立ち入りは今も厳しい。(中略)ロロン県で
チャムド地区もカム地方なんですが…。どうも、チベット地名のスケールをご存じないまま字面だけ並べている感があります。そして「独立運動」…。矢島保治郎がチベットを離れた後に独立運動が激しく続いた地域だとは思いますが、どうも、当時ではなく「現在」の話をしているようで…。
チベットを貫流する大河・ヤルザンポ川にそってさかのぼる。川向こうにあるウー・ツァン村はダライ・ラマ13世の生誕の地だ。
これもチベットの大まかな地域区分を耳にしたことがあるなら、「ウー・ツァン」が「村」なんてことには……。ダライ・ラマ13世は、チベット自治区南部(ウ・ツァン地方のなかのロカ地域)のタクポのランドゥンという場所で生まれたとされています。
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/successive.html
◇
プロジェクトを進めてきた小松氏の熱意と意欲をひしひしと感じるだけに、細かいところで「ええっ!?」と引っかかってしまうのが残念で、これまでに残った謎を解き明かす糸口を追いかけようとすればするほど欲求不満がつのる、というなんとも不思議な保治郎展でした。で、それと反比例して「自分が現地に行ってこの眼で見たい」という気持ちはハンパなく高まるという、とても刺激的な展示会でありました。
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